トヨタセリカ1.8 SS-IIの評判・スペック
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トヨタ セリカ 1.8 SS-II
セリカのフロント外観(02年(H14)8月、MC時のSS-IIのフロント)
セリカのリア外観(02年(H14)8月、MC時のSS-IIのリア)
セリカの内装・インパネ(02年(H14)8月、MC時のSS-IIのリア)
| メーカー | トヨタ |
| 車種 | セリカ |
| グレード | 1.8 SS-II |
| 販売期間 | 2005年12月から 2006年04月 |
| 価格 | 2,084,000円 |
| エンジン |
エンジン:
直列4気筒DOHC 排気量: 1795cc 型式: TA-ZZT231 馬力: 190ps トルク: 180(18.4)/6800 ミッション: 4AT バッテリー: 標 準:34B19L 寒冷地:34B19L(※例外有) |
| タイヤ |
前輪:
205/55R15 後輪: 205/55R15 ホイールサイズ: (F)6.5Jx15+39/(R)6.5Jx15+39 駆動: FF 最小回転: 5.2m タイヤサイズ |
| 燃費 |
燃費(JC08):
- 燃費(10•15): 12km/L 燃料: ハイオク 実燃費: 7.21から 12.72 |
| ボディサイズ | 高さ: 1305 車幅: 1735 全長: 4340 |
| 乗車定員 | 4人 |
| 評価・レビュー |
外観:
4.84点 内観: 3.59点 スペック: 4.34点 エンジン: 4.34点 乗り心地: 3.59点 燃費: 3.71点 価格: 4.26点 |
| 中古車 |
台 買取価格相場 車を売る |
トヨタセリカとは
トヨタが製造したセリカは、1970年代初頭にデビューし、スポーティーなスタイリングと優れた性能で多くの車好きから支持を受けてきたコンパクトカーだ。セリカは当初、2ドアクーペとして登場し、後にハッチバックタイプもラインナップに加わった。スポーティーでシャープなデザインが特徴であり、軽快な走りと取り回しの良さから、若者を中心に人気を集めた。また、信頼性の高さもセリカの魅力の一つである。 価格帯はモデルや年式によって異なるが、手ごろな価格から高級志向まで幅広く展開されている。エンジンの排気量や馬力もグレードによって異なり、スポーツモデルではよりパワフルな性能が実現されている。燃費性能も優れており、燃料効率の良さが利用者に好評を得ている。タイヤサイズも適切に設計されており、走行性能を向上させている。 セリカはスポーツカーとしてのイメージだけでなく、日常の使い勝手も考慮された設計になっている。持ち運びのしやすいサイズ感や扱いやすい操作性が、幅広い層のドライバーに支持されてきた理由の一つだろう。また、歴史を重ねるごとに技術進化を遂げ、安全性や快適性の向上も図られてきた。 セリカの人気の秘密は、スポーティーな外観と高い実用性、信頼性の高さにある。多くのオーナーが長く乗り続けることができる頼れる一台であり、これらの要素がセリカを愛する人々を増やしてきた。トヨタの技術力とブランド力を結集したセリカは、日本だけでなく世界中の車好きから支持を得てきた歴史ある名車である。より詳しいスペックやオプションの情報を見ることができます。
| 詳細項目 | スペック |
|---|---|
| 型式 | TA-ZZT231 |
| 最小回転半径 | 5.2m |
| 駆動方式 | FF |
| 全長×全幅×全高 | 4.34m×1.74m×1.31m |
| ドア数 | 3 |
| ホイールベース | 2.6m |
| ミッション | 4AT |
| 前トレッド/後トレッド | 1.49m/1.48m |
| AI-SHIFT | - |
| 室内(全長×全幅×全高) | 1.73m×1.44m×1.09m |
| 4WS | - |
| 車両重量 | 1160kg |
| シート列数 | 2 |
| 最大積載量 | -kg |
| 乗車定員 | 4名 |
| 車両総重量 | 1380kg |
| ミッション位置 | フロア |
| 最低地上高 | 0.14m |
| マニュアルモード | ◯ |
| 標準色 | スーパーレッドV、ブラック、スーパーブライトイエロー、スーパーホワイトII、グレーメタリック、シルバーマイカメタリック |
| オプション色 | ブルーブラックマイカ カラークリア |
| 掲載コメント | - |
| エンジン型式 | 2ZZ-GE |
| 環境対策エンジン | H12年基準 ☆ |
| 種類 | 直列4気筒DOHC |
| 使用燃料 | ハイオク |
| 過給器 | - |
| 燃料タンク容量 | 55リットル |
| 可変気筒装置 | - |
| 燃費(10.15モード) | 12km/L |
| 総排気量 | 1795cc |
| 燃費(WLTCモード) | - |
| 燃費基準達成 | - |
| 最高出力 | 190ps |
| 最大トルク/回転数n・m(kg・m)/rpm | 180(18.4)/6800 |
| 福祉車両 | - |
| 大型ガラスルーフ | - |
| 片側電動スライドドア | - |
| サンルーフ | △ |
| 両側電動スライドドア | - |
| ルーフレール | - |
| ドアイージークローザー | - |
| Tバールーフ | - |
| 電動バックドア | - |
| ルーフ系装備 | - |
| ディスチャージドランプ | ◯ |
| タルガトップ | - |
| フロントフォグランプ | △ |
| ハードトップ | - |
| リアフォグランプ | △ |
| ソフトトップ | - |
| ヘッドライトウォッシャー | - |
| キャンバストップ | - |
| フロントスポイラー | ◯ |
| メタルトップ | - |
| リアスポイラー | ◯ |
| マグネシウムホイール | - |
| ローダウン | - |
| アルミホイール | △ |
| UVカットガラス | ◯ |
| 片側スライドドア | - |
| プライバシーガラス | - |
| 両側スライドドア | - |
| 寒冷地仕様 | △ |
| ステアリング位置 | 右 |
| ステアリングステアリングギア方式 | ラック&ピニオン式 |
| ステアリングパワーステアリング | - |
| ステアリングVGS/VGRS | - |
| サスペンション形式前 | ストラット式 |
| サスペンション形式後 | ダブルウィッシュボーン |
| 高性能サスペンション | - |
| タイヤサイズ前 | 205/55R15 |
| タイヤサイズ後 | 205/55R15 |
| ブレーキ形式前 | Vディスク式 |
| ブレーキ形式後 | ディスク式 |
| ソナー | ◯ |
| 駐車支援システム | - |
| センターデフロック | ◯ |
| 横滑り防止装置 | - |
| トラクションコントロール | △ |
| フロントカメラ | - |
| LSD(リミテッドスリップデフ) | - |
| サイドカメラ | - |
| ダウンヒルアシストコントロール | - |
| バックカメラ | - |
| AYC(アクティブ・ヨー・コントロール) | - |
| 頸部衝撃緩和ヘッドレスト | - |
| SH-4WD | - |
| ABS | - |
| ISOFIX対応チャイルドシート固定バー | - |
| ブレーキアシスト | - |
| ビルドインチャイルド | - |
| アイドリングストップシステム | - |
| バケットシート | EBD付きABS(◯) |
| ランフラットタイヤ | - |
| 後退時連動式ドアミラー | - |
| エアサスペンション | - |
| レインセンサー | - |
| ブレーキ系装備 | - |
| インテリジェントAFS | - |
| 衝突軽減装置 | - |
| 盗難防止装置 | - |
| ナイトビジョン | - |
| セキュリティアラーム | - |
| レーンアシスト | - |
| ロードサービス | - |
| 車間距離自動制御システム | - |
| パワーウィンドウ | - |
| オットマン機構 | - |
| フルフラットシート | - |
| チップアップシート | - |
| 本革シート | |
| 電動サードシート | ◯ |
| フロントベンチシート | - |
| 床下ラゲージボックス | - |
| シートリフター | - |
| エンジンスタートボタン | - |
| シートポジションメモリー機能 | 分割可倒 |
| キーレスエントリー | - |
| 運転席パワーシート | - |
| ETC | - |
| フロント両席パワーシート | - |
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トヨタ セリカの知っておきたい情報
セリカとは?
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トヨタセリカの新車情報
トヨタセリカの最新情報まとめトヨタ・セリカ
セリカ (Celica) は、トヨタ自動車が1970年から2006年まで製造・販売していたハードトップおよびクーペ型の乗用車(スペシャルティカー)。日本国内の取り扱い販売店はトヨタカローラ店。
また、この項目では以下のモデルについても記述する。
日本初のスペシャリティカーとして知られ、初代モデルは大ヒットを果たした。歴代モデルには斬新なデザインが採用され、北米や欧州にも輸出された。また、モータースポーツにおけるベース車両としても長く活躍し、そのモデルライフ間にマカオグランプリ、IMSA、WRC、パイクスピーク・ヒルクライム、NASCARなどで優勝を収めるなどの活躍を見せた。
派生車種が数多く存在しており、登場当時からカリーナと兄弟車種であったほか、前輪駆動化後はコロナともプラットフォームを共有するようになった。
通称は「ダルマセリカ」または「ダルマ」。由来は、当時としては珍しく、ボディがだるまのようにふくよかなため。また、スラントノーズのフロント部を正面から見ると、ラップアラウンドタイプのメッキバンパーがダルマのひげ面に見えるからであると言われている。生産台数は41万1815台。
1970年12月に登場。前年の東京モーターショーに出品されたコンセプトカー・EX-1をベースとしている。登場時のボディタイプは独立したトランクルームを持つ2ドアハードトップクーペのみである。キャッチフレーズは「未来の国からやってきたセリカ」。同時に誕生したカリーナと車台を共用した。アメリカで大成功したフォード・マスタングに倣って、好みのエンジン、変速機、内装を自由に選べる“フルチョイス”と呼ばれるシステムを採用。ただし、ヤマハ製の2T-G型DOHCエンジンを積んだ最上級モデルの1600GTは“フルチョイス”の対象外だった。皮肉にもGTの人気が圧倒的に高く、現在でも雑誌などの旧車特集でA20/30型が特集される際は、ほとんどの割合でGTが登場する。
1972年8月のマイナーチェンジではリアコンビランプの方向指示器を独立させたうえにアンバーに変更したツーピースタイプとなる。燃料タンクの位置がトランク床下から後席背後に変更となり、給油口の位置もリアガーニッシュパネル裏(左右尾灯間)からリアピラーに変更された。モータースポーツ用ベース車としてサスペンションを強化した1600GTV(VはVICTORY=勝利の意味)を追加した。
1973年4月には、前年のモーターショーに出品されたコンセプトカー「SV-1」を元にテールゲート(バックドア)を備えた3ドアリフトバック (LB) が登場している。LBの燃料タンク位置は、初期のクーペと同じトランク床下であるため給油口はリアの中央ガーニッシュパネル裏にあり、エンブレムを引いて蓋を開ける。従来からのクーペには2,000 cc(18R型)エンジン搭載車を追加。LBでは1,600 cc OHV/1,600 cc DOHC/2,000 cc SOHC/2,000 cc DOHCの計4機種のエンジンが設定され、とりわけ高性能版の2,000 cc DOHCを積んだLB2000GTの人気が高かった。
1974年1月のマイナーチェンジで、クーペのフロントノーズのデザインがエンジンフードの長いLBの物に統一される。クーペに2000GT追加。1600GTのホイールキャップが廃止された。
1975年には昭和50年排出ガス規制への対策に伴い、シリーズ全体のマイナーチェンジを実施。この時、主として排ガス対策機器を納めるため、ボディサイズは全長25 mm、全幅10 mm、ホイールベース70 mm、フロントトレッド50 mmとそれぞれ拡大され、室内も従来のイメージを残しつつ、ダッシュボードが大きく変更された。またLBの一部グレードには衝撃吸収バンパーが設定されている。その一方で1400 OHVモデルや1600 DOHCモデルは廃止された。
1976年には2,000 cc DOHC搭載モデルが昭和51年度排出ガス規制適合車となる。
モデル末期の1977年には特別仕様車として、「ブラックセリカ」が登場した。なお、最終型の時点で型式がA30型に統一されている。
1977年8月、2代目にフルモデルチェンジ。先代と同じくプラットフォームはカリーナと共通。ドアは先代と同じサッシュレスタイプで、センターピラー付のボディ構造となる。この代よりトヨタアメリカ()のデザインオフィスである、キャルティデザインリサーチ()がスタイリングを担当。空力重視のスタイリングであり、日本初の三次元曲面サイドガラスが採用された。
当初の搭載エンジンのラインアップは1.6 Lの2T-U型(OHV・シングルキャブ)、および12T-U型(OHV・シングルキャブ)、2T-GEU型(DOHC・EFI)、1.8 Lの3T-U型(OHV・シングルキャブ)、2.0 Lの18R-U型(SOHC・シングルキャブ)、および18R-GU型(DOHC・ツインキャブ)の計6種類が用意されていた。
1977年11月、1.8 LモデルのMT車用のエンジンが3T-U型から昭和53年排出ガス規制適合の13T-U型(OHV・シングルキャブ)に差し替えとなる。
1978年3月には、リフトバック(のちにクーペにも追加)にサンルーフ付き(日本車初/手動)を加え、翌4月には米国市場での対フェアレディZを主眼にした、上級モデルのセリカXX(MA40型)が登場する。
1978年5月、1600GTを除く1.6 Lモデルに3速AT車が追加される。同時に1.8 Lモデルの3速AT車用のエンジンが3T-U型から13T-U型に差し替えとなる。1600GTに搭載される2T-GEU型エンジンが昭和53年排出ガス規制適合。110 psから115 psに出力が向上。これに伴い、GT系グレードに標準装備されていた衝撃吸収ウレタンバンバーがGT系グレード以外の全グレードでメーカーオプション扱いで設定される。
1978年9月、一部改良。1.8 Lの3T-EU型エンジン (OHV・EFI) 搭載の1800ST-EFI、1800XT-EFIが追加。当初は5MTのみの設定。昭和53年排出ガス規制適合。同時に、2000GTの18R-GU型エンジンのEFI化(18R-GEU型)により、昭和53年排出ガス規制適合。また、18R-U型エンジンも21R-U型(SOHC・シングルキャブ)に変更、昭和53年排出ガス規制適合。全グレードが昭和53年排出ガス規制に対応完了。これに伴いリヤオーナメント(リヤエンブレム)が「TOYOTA」から「TOYOTA CELICA」に変更となる。
1979年8月、マイナーチェンジ。
フロントグリルが変更され、ヘッドライトが角型4灯になる。他の変更点は外観ではセンターピラー・リアコンビネーションランプ 車体もエンジン前のフレームが変更されている。
このマイナーチェンジ時のキャッチコピーは「名ばかりのGT達は、道を開ける」。これはDOHCエンジンを設定していたセリカに対し、直列6気筒SOHCエンジンを搭載してGTを名乗っていた日産・スカイライン(C210型・通称ジャパン)を挑発したものであった。
1980年1月、4ドアセダンのセリカカムリが登場する。こちらはカリーナの姉妹車である。
1980年8月、GT系リフトバックのみリアサスペンションがこれまでの4リンクコイルリジッド式から、セリカXX同様、セミトレーリングアーム式に変更。リフトバックのみ変更。セミトレーリングアーム車はA50系。セミトレーリングアームのみホイールも14インチに拡大された。また、21R-U型エンジン搭載車のATがこれまでの3速ATから4速ATに変更される。
販売終了前月までの国内新車登録台数の累計はXXを含めて13万7165台。
1981年7月にモデルチェンジ。車台はカリーナやコロナと共通。先代より一層スペシャルティカーの要素を強めて登場した。キャッチコピーは「世界、新CELICA」。ソアラが誕生したことにより、こちらはXXシリーズ(GA60/MA60型)も含めて、ターゲットを従来より若い世代へシフトしている。直線的なラインで鋭いウェッジシェイプを描く4気筒系ボディ(ショートノーズ・ショートホイールベース)は先代同様にリフトバック (LB) とクーペの2種類。エンジンは1,600 cc・DOHC・EFI (2T-GEU)、1,800 cc・SOHC・シングルキャブレター (1S-U)、1,800 cc・OHV・EFI (3T-EU)、2,000 cc・DOHC・EFI (18R-GEU) の計4種類となる。
登場当初は4気筒系ボディ全車に日本車初となるライズアップ(ポップアップ)式ヘッドランプが採用されていたが、1983年のマイナーチェンジでリトラクタブル式ヘッドランプ(通称ブラックマスク)に変更となる。このモデルは2010年現在、日本車として唯一のポップアップ式ヘッドランプの採用例となっている。
1982年9月、2,000 ccDOHCに代わって1,800 ccツインカムターボ (3T-GTEU) GT-T系が追加された。とき同じくして姉妹車種のコロナ・カリーナにも同名のグレードが追加設定された。
1982年10月にはWRC・グループBホモロゲーション用のGT-TSが200台販売された。
1982年まではRA63型(最高出力240 ps)にて参戦していたWRCは、1983年からは日本初のツインカムターボエンジンである3T-GTEUを拡大した4T-GTEUをさらに2,090 ccまでボアアップし、370 psを搾り出すTA64型にてWRCに参戦。1984年から1986年まで、モンスターマシンが顔を揃えるグループB時代のサファリラリーで3連覇を飾った。
1983年8月のマイナーチェンジではドアミラーの標準装備。GT系に60扁平タイヤを採用。1,600 cc・DOHCのエンジンが2T-GEUから4A-GEUに変更。これに伴い1,800 cc・OHV・EFIの3T-EUが廃止された。
なお、このモデルは2代目セリカXXとほぼ同時期に発売されたため、セリカXXの人気の影に隠れる形となってしまった。そのため、セリカとしてはマイナーなモデルとなっている。TA61型をベースにしたコンバーチブルが北米市場向けに生産されており、1985年に貿易摩擦解消のため9台限定(RA65L/2,400 cc/オーバーフェンダー、当時600万円)で日本でも販売されている。
販売終了前月までの新車登録台数の累計は15万1297台。
ツインカム・ターボが登場した1カ月後の1982年10月にグループBカーとなるGT-TS(TA-64型)が発売された。この車は当時のFISAのグループBカーの基となる200台生産が要求される型であり、この中から更に高度な改造を施した20台のエボリューション・モデルを製造することができた。純粋なラリーカーのベース仕様車であり、改造を前提とした簡素なモデルのために、価格も市販量産型のGT-Tよりも10万円安価な169万円である。同時期に日産自動車が同様の目的で準備した日産・240RSが改造を要しないラリー仕様で200台生産されたこととは対照的な手法を採った。
エンジンは、市販型1,770 ccの3T-GTEU型のボアを0.5 mm拡大しボア85.5×ストローク78.0 mmとした排気量1,791 ccの4T-GTEU型が搭載された。これは競技規定でターボチャージャー付エンジンは係数1.4を掛けた値の排気量でクラス分けされるため3T-GTEU型では2,500 cc未満のクラスに入れられてしまうことを避け、タイヤ巾のより広い3,000 cc未満のクラスに入れるようにという配慮からである。エンジンに関する変更はこのボア拡大のみで160 hp/6,000 rpm、21.0 mkg/4,800 rpmといった値は3T-GTEU型と同じ。
当時の4気筒エンジン搭載のセリカの市販車には、後輪サスペンションが上位グレードの独立型セミトレーリングアームと下位グレードの固定型4リンク式リジッドの2種類があった。ツインカム・ターボエンジン搭載の市販車は全て前者で、GT-TSは改造度の高さとラリー競技での整備性の高さから固定型サスペンションを採用していた。
ボディもスポイラーやオーバーフェンダーといった付加物は装着されておらず、フロントフェンダーの素材が鋼板から「R-RIM」と呼ばれるウレタン樹脂になったのが唯一の変更点である。車両重量は主にリアサスペンションの変更により標準のGT-Tよりも約35 kg軽量化された1,110 kgとなっていた。
1985年8月、4代目にモデルチェンジし前輪駆動への大変革となった。FFコロナ/カリーナのフロアパンをベースにしているため、型式も「T」となり、セリカにはコロナクーペとカリーナEDという姉妹車も生まれた。『流面形、発見さる。』の広告コピーが象徴するように、スタイリングは、先代モデルを流動感ある曲線でなめらかに整形したかのようなラインを採用し、その後のトヨタ車やダイハツのクーペ風軽自動車「リーザ」にも影響を与えた。クーペはコロナ・ハードトップと統合されコロナクーペとなり、ボディタイプはリフトバックのみとなった。なお、トヨタでは4代目からリフトバックのことを「クーペ」と呼ぶようになった。
1986年にはトヨタ初のベベルギア式センターデフ(手動デフロック付き)をもつフルタイム4WDである排気量2,000 ccのGT-FOUR(ST165型)が登場した。
1987年8月のマイナーチェンジでは2,000 cc・16バルブ (3S-FE) 車が追加。1,600 ccDOHC (4A-GE) 車は廃止。同時にGT-FOURのセンターデフ手動デフロックがビスカスカップリングによる差動制限に変更された。
1987年10月にはトランクルームを持つ専用ボディーのコンバーチブル(ST162C型)が日本でも正式にラインナップに加わり、3S-FEエンジンを搭載して発売された。コンバーチブルは米国のASC(アメリカン・サンルーフ・コーポレーション=現)によってオープン化改造を行っており、太平洋を往復する生産ラインが後のモデルのコンバーチブルでも継承されることになった。
1988年5月には1,800 cc車もDOHC化 (『ハイメカ・ツインカム』4S-Fi) され、これでセリカ全車がDOHC化された。
生産終了前月までの新車登録台数の累計は3万9992台。
1989年9月、セリカは5代目にモデルチェンジ。CMにアメリカの俳優 エディ・マーフィを起用。 先代のイメージを踏襲しつつ、ニューエアロフォルムと呼ばれる未来感覚にあふれる個性的なスタイリングを纏って登場した。プラットフォームは先代をベースとしていながら、サスペンションのリファインが行なわれて剛性が上げられている。さらにフルタイム4WDであるGT-FOURのリアデフには、日本初のトルセンリミテッド・スリップ・デフを装着した。限定車として、油圧制御式アクティブサスペンション装着車が用意された。オーディオは10スピーカーのスーパーライブサウンドシステムがオプション設定された。2ドアクーペも用意され、アメリカやカナダ等の北米地域(アメリカ自治領含む)で販売された。
ラリー競技への参加用車両として、クロスミッションを標準装備したラリーベースグレード「GT-FOURラリー」が設定された。オーディオ、エアコン、パワーウィンドウなどの快適装備が省略された以外にも、標準装備されるタイヤはほかのグレードよりも1サイズ細いものが装着され、アルミホイールはオプション設定もされなかった。
1990年8月には、先代と同様に輸出仕様車のみの設定のクーペボディを、ASCによって改造されたコンバーチブル(ST183C型)を追加した。3S-GE型エンジンとデュアルモード4WSが搭載され、上級グレードとして本革シートを装備したTYPE-Gが新たに設定された。GT-FOURには前後ブリスターフェンダーにより、ワイドボディ化されたGT-FOUR A(ST185H型)が登場した。Aはアドバンスを意味する。
1991年8月にはリアコンビネーションランプやフロントとリアの細部の意匠が変更された(エンブレムがトヨタマークに変更)。ドア内にサイドインパクトビームが追加され、後席3点式シートベルトが装備された。トランスミッションはシンクロナイザーが強化されるなどのマイナーチェンジが実施された。標準ボディとワイドボディ2種類が混在していたGT-FOURは全てワイドボディ化され、GT-FOUR Aはラインナップから消滅した。またGT-FOURは標準装備のタイヤとホイールが15インチ化されている。
同年9月、WRC用のホモロゲーションモデルGT-FOUR RCが発表された(RCとはラリー・コンペティションの略)。生産台数はグループA規定の5,000台で、日本国内ではそのうちの1800台が販売された。輸出モデルはカルロス・サインツ・リミテッドエディションと呼ばれた。
1992年8月には ダークブルーマイカメタリックのボディーに青い幌のLIMITED 300も国内300台限定販売された。
1993年9月 - 生産終了。在庫販売のみとなる。
1993年10月 - 6代目と入れ替わる形で販売終了。販売終了前月までの新車登録台数の累計は7万4115台。
1993年10月に販売が開始された6代目のセリカは、より一層高められたスポーツ性を特徴とした。全モデル3ナンバーサイズとなったシャシーは新しい設計で剛性が向上、カリーナEDとコロナ・エクシヴと共用される。重量は逆に20 kg程度軽量化(ST205,ST185前期型比)されている。まずはNAモデルが先行発売され、ラインナップはハイメカツインカム3S-FE (140 ps) 搭載のSS-Iと、スポーティツインカム3S-GE (MT:180 ps/AT:170 ps) 搭載のSS-IIの2グレードが発売された。また、SS-IIにはセリカとしては初採用のスーパーストラットサスペンション装着モデルも用意された。スーパーストラットモデルのMT車にはビスカスLSDが搭載され、オプションでスポーツABSも選択可能とし、更なるスポーツドライビングを実現した。2ドアクーペも用意され、アメリカやカナダ等の北米地域(アメリカ自治領含む)で販売された。
1994年2月には、新しいWRCホモロゲーションモデルのGT-FOUR(ST205型)が登場。搭載されるツインカムターボ3S-GTEはレーザークラッドバルブシートや、インジェクター容量の拡大 (430 cc → 540 cc)、メタルガスケットの採用、Dジェトロ燃料供給方式や水冷式インタークーラーなどにより255 psとなった。駆動方式は先代同様フルタイム4WDだが、スーパーストラットサスペンションを装着しブレーキも対向4ポット(前)、対向2ポット(後)のアルミキャリパー4輪ベンチレーテッドディスクとなり制動力も向上した。また、大型リヤスポイラーやフードエアスクープ、ウォータースプレー、ミスファイアリングシステムなどを装備したWRC仕様車が、国内限定2,100台販売された。このGT-FOURは、TTEのオベ・アンダーソン監督の意見を取り入れて造られていた。
1994年9月には日本市場向け量産型としては3代目となるコンバーチブル(ST202C型)を発売。ASCが引き続き手掛けた電動幌開閉装置は先代までの油圧式からオール電動モーターに変更され、3分割のレールが外側に広がりながら重なり合う「アウターフォールド機構」の採用で省スペース化を実現。後部座席幅が260 mm広がり、大人男性2人でも窮屈にならない程度に改善された。また、リアウインドウに初めてガラス(電熱線入り)を採用。幌を閉じた状態はクーペタイプに見劣りしないスマートなシルエットとなった。ボディはクーペと異なり、3ドアリフトバックではなくノッチバックボディを採用している事が一番の特徴であろう。これによりクーペタイプとほぼ変わらない重量と剛性を実現している。ST202CはST183Cなどと同様に北米仕様のセリカクーペをベースとしているため、ST200型セリカクーペのフロントマスクを日本独自のデザインにして販売していたカレンとは、トランクパネルやテールランプなどリア周辺の部品が共通している。
1997年12月にはエンジン改良等のマイナーチェンジが行われ、特にSS-II、SS-IIIに搭載される3S-GEエンジンはマイナーチェンジの枠を大きく超える改良が施された。3S-GEのエンジン本体の変更点は、VVT-i採用のBEAMSとなったことが挙げられる。VVT-i採用に伴って、オイルポンプの吐出量の増量化、オイル通路の新設、プーリーの追加、タイミングベルトカバーの形状変更、タイミングベルトの歯数・材質の最適化、ECUの変更などが余儀なくされた。その他、エンジン関係の変更点としては、シリンダーヘッドガスケットのメタル化や、シリンダーヘッドの形状変更、バルブ挟み角の変更、ピストンの軽量化、インジェクター噴射口数の増加、ダイレクトイグニッションの採用など、枚挙に遑がない。エンジンのみならず、同時に補機類にも数々の改良が加えられている。補機類の変更点としては、熱線式エアフロメーターの採用、サージタンク容量の拡大、フライホイールの軽量化、スロットルボア径の拡大、インテークポートにポートファンネル形状の採用、ステンレス製エキマニの採用、エキマニの等長化、触媒の小型化、新ダイアグノーシスの採用(国際規格化)、熱害警告装置の廃止(全グレード)などがある。以上のようなフルモデルチェンジに迫る改良の結果、最高出力と燃費を大幅に向上させている (200 ps)。同時にエクステリアも変更を受け、マルチリフレクター(ハイビーム)プロジェクター(ロービーム)ヘッドライトを採用、GT-FOURとSS-IIIには大型リアスポイラーやサイドマッドガードが標準装備された。インテリアの変更点は、メタル調パネルの採用(全グレード)や、エアバッグの小型化(全グレード)、ホワイトメーターの採用(3S-GE搭載車)などがある。以上のような目まぐるしい改良が行われたにもかかわらず、販売的には苦戦を強いられ、わずか1年半後には次期モデルにバトンタッチすることになった。
GT-FOURとコンバーチブルは次期モデルのZZT230系は市販に至らず、ST200型が最終モデルとなった。
HKSの手によってチューンされたST202型は日本産FF車として、初めて0 - 400 m加速で10秒を切るタイムを出した。
1999年8月に生産終了。在庫対応分のみの販売となる。販売終了前月までの新車登録台数の累計は8万9810台。
1999年9月に7代目と入れ替わる形で販売終了。その後のトヨタの4WDスポーツカーは2020年販売開始のGRヤリスまで待つこととなる。
1999年9月にフルモデルチェンジ。CALTYが外装デザインを手がけた、縦長のヘッドランプと短めの角ばった段差を持ったリアデッキが特徴。
ダウンサイジングしたボディは前輪駆動専用設計(4WD「GT-FOUR」の設定はなし)となっており、ロングホイールベース、ショートオーバーハングとなり、高速走行時の安定性向上が図られている。
また、路面追従性・運動性を高めるためにリアサスペンション形式がバイザッハアクスル式ダブルウィッシュボーンとなっている。既に同一プラットフォームのFF仕様リアサスペンションは、コスト等の兼ね合いからトーションビームの固定車軸となっており、ハンドリングが重視されるスポーティーカーには不向きであったため、同プラットフォームを用いた既存の5代目ビスタ、およびビスタアルデオの各4WD仕様をベースに仕立てたものである。同様の手法は、後の3代目カルディナや2代目アベンシス(ただし、日本仕様は初代扱い)、初代オーリスの兄弟車のブレイドでも行われている。
新設計のZZ系エンジンは、先代から200 cc排気量ダウンした1,800 ccとなるも、トップグレードSS-IIが搭載する2ZZ-GE型エンジン(ハイオク指定)は連続可変バルブタイミング・リフト機構(VVTL-i)を備え、190 psを発揮する。エントリーグレードのSS-Iは実用エンジンの1ZZ-FE型を搭載しているが、同型エンジンを積む車種の中では最も出力の高い145 psとなっている。なお、環境性能はSS-I、SS-IIともに☆1つの「平成12年基準排出ガス25%低減レベル」となっている。
軽量化と自然吸気エンジンへの回帰は、開発時期が重なっていたMR-Sでも同様であり、パワー&ドライブトレーンを共有する両車は、一部の実験データも共有している。ともにそのハンドリングは、特にイギリスでの評価が高い。
GT-FOURが廃止され、車格の低いカローラレビン/スプリンタートレノとの統合が図られ、排気量も小さくしたこともあって、ライトウェイトクーペへとコンセプト変更している。その結果、同グレードの先代から60 - 90 kgの軽量化を果たしている。特にSS-IのMT車に至っては車両重量1,090 kgと、SS-IIのMT車よりも30 kg軽く、スーパーストラットパッケージ車と比較で50 kgの差が発生している。SS-Iでは、SS-IIと比べて内装・外装を適度に省略/簡略化し低価格を実現している。SS-IIとの仕様、装備の差は、1ZZ-FE型エンジン (145 ps)、リアはディスクでなくドラムブレーキ、電動格納が省略されたドアミラー、マニュアルエアコン、本革でなくウレタンステアリングとウレタンシフトノブ、リアスポイラーなし、マフラーカッターなし、60扁平。これにより、SS-Iは発売当初で標準価格は168万円となった。ただし、その後のマイナーチェンジにより価格が若干上がっている。
2006年4月、販売終了。ここまでの国内新車登録台数の累計は2万7013台。これによりセリカは7代36年の歴史に幕を閉じた。ただし北米ではサイオン・tCの名前でセリカ同様の4気筒FF2ドア・スポーツクーペが2004年から2016年まで1代目・2代目を経て販売されていた。
トヨタがアンダーソン・モータースポーツ(現TMG)と契約して最初のラリーであるRACラリーに、TA22型セリカでデビュー、9位で入賞した。翌年開幕したWRC(グループ2)には最高出力を135 psまで上げたTA22型で参戦。1974年からはカローラレビンがメインとなりセリカはサブ車両となるが、1976年からは再びセリカ(RA20型)にメイン車両を戻した。エンジンは18R-Gを1,968 ccにボアアップ、最高出力200 ps。1978年まで活躍した。
また1972年には見崎清志が1600GTを駆り、マカオGPで初のクラス優勝を達成。1973年にはニュルブルクリンク6時間レースと、スパ24時間レースでもクラス優勝を収めるなど、世界中でセリカは活躍を見せた。1977年にはドイツツーリングカー選手権に、シュニッツァーが製作したRA20ベースのセリカLBターボがGr.5クラス(シルエットフォーミュラ)へ出場した。またこれを1979年にトムスが輸入し、日本国内レースでも活躍している。
1978年WRCの1000湖ラリーからRA40型(最高出力230 ps)が参戦。1981年にはアイボリーコーストラリーにて準優勝を飾る。なお、1979年のRACラリーからDOHC4バルブのエンジン使用が許可されたため、ベース車両はRA63型に移行。1982年のニュージーランドでアウディ・クワトロ勢を破って優勝を収めている。
また、1977年のF1日本GPで、オフィシャルカーとして、LBモデルが使用された。
それまでのRA63のグループ4カーを代替する競技車両として、前年に発売された200台生産のGT-TSから高度な競技専用の改造を施した20台のエボリューション・モデルが西ドイツのケルンを本拠地とするトヨタ・チーム・ヨーロッパ (TTE) で1984年に製造されグループBの公認を取得することになった。エンジンの開発とテストは日本で行い、車両の開発はドイツのTTEで行った。
エンジンは、ベースの排気量1,791 ccの4T-GTEU型をボアφ89×ストローク84 mmとして規定いっぱいの2,090 cc(換算値2,926 cc)まで拡大した360英馬力/8,000 rpm、35.0 mkg/5,200 rpmの4T-GT改となった。ターボチャージャーはそれまで他のセリカのレースカーで使用していたエアリサーチ社の物からラリー競技での実績やサービス性を考慮してTTEと同じドイツのKKK製K27型を採用した。吸気側のインタークーラーに備えたリリーフバルブと高度調整装置付きウェイストゲートバルブにより如何なる気圧環境下でも0.8 kg/cmの過給圧を保つことができた。燃料供給方式はトヨタグループの日本電装(現デンソー)製のEFI、点火方式も日本電装製の電子制御ESAを採用した。
ターボチャージャー以外にもレース用部品を多用しており、変速機はトヨタとヒューランドが共同開発したドグクラッチ式5速マニュアルトランスミッション、クラッチはボーグ&ベック(現ボルグワーナー)製、デファレンシャルと後輪車軸はソールズベリー製、ブレーキは4ピストンキャリパーのAPロッキード製を使用していた。タイヤはピレリ製の前165-16、後195-15という大径細身のものを採用し、ホイールは当初マグライト製を使用していたが、後にスピードライン製に変更した。
ボディ側では、前後重量配分を改善すべくエンジン、変速機の位置を後方へ100 mm移動させ、トランクリッド上にはトランク内に設置されたドライサンプ式オイルタンク用のオイルクーラーが搭載していた。市販車ではライズアップ式であったヘッドライトが重量と信頼性を重視した固定式となり、大きく張り出した前後のフェンダーを含む多くの外板が軽量な樹脂製に交換されていた。
後輪駆動のTA64はアフリカのラリーで真価を発揮し、1984 - 1986年のサファリラリー、1983・1985・1986年のアイボリーコースト・ラリー、1986年のコートジボワール・ラリーで優勝を飾っている。
また日本初のグループCカーとして、トムスと童夢が共同開発したマシンのベース車両もセリカであった(トムス童夢・セリカC)。
グループBとグループS構想が急遽廃止されたため、1987年のトヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)はスープラ(前期型・7M-GTEUを搭載し最高出力410 ps)をST165型までの繋ぎとした。5,000台の販売規定をクリアした1988年にようやくX-TRAC製6速ミッションを搭載したST165型のGT-FOURを投入した。しかし他メーカーとは違い、ラリーで使うことを想定して開発されたわけではないST165型の開発は難航した。ユハ・カンクネンは最初にドライブしたときこのマシンの素性・フィーリングを高く評価したが、一方でエンジンパワーと信頼性の不足に悩まされ続けた。しかし4WD技術、信頼性、軽量化、セッティングなど様々な面での熟成が進んだ末、1990年に遂にランチアの牙城を破り、カルロス・サインツが日本車初のWRCタイトル(ドライバーズチャンピオン)をもたらし、並行参戦していたアジアパシフィックラリー選手権 (APRC) でもサインツがチャンピオンとなった。
またT160型はTRD USAとオール・アメリカン・レーサーズによってIMSAのGTOクラスにも投入され、1987年にクラスチャンピオンとなる活躍を見せた。
1992年にWRCに登場。空冷式インタークーラーとツインエントリーセラミックタービンを搭載した標準のGT-FOURに対し、GT-FOUR RCは水冷式インタークーラーと、耐久性を重視して金属製のタービンブレードを使用したターボチャージャーが搭載された。ワイドボディ化によりタイヤ選択の幅が広がり、ブレーキサイズの拡大により制動力が向上。1992年に再びカルロス・サインツがドライバーズタイトルを獲得すると、1993年にはユハ・カンクネンとともに、日本車初となるWRCマニュファクチャラーズに加え、やはり日本車初となるドライバーズとのダブルタイトルをもたらした。
WRCでは1994年の1000湖ラリーから参戦予定だったが、直前になっても車両の開発状況が思わしくなかった。特にスーパーストラットサスによるハンドリングチューンは難航し、結局ラリー・オーストラリアでのデビューとなる。この年は前半がST185であったこともあり、トヨタにとって2年連続2冠制覇となった。また同年はディディエ・オリオールがフランス人初のドライバーズチャンピオンに輝いている。
しかし、重い車体と決まらないハンドリング、縮小されたリストリクターによる出力低下にチームとドライバーは悩まされ続け、WRCの勝利は1995年のツール・ド・コルスのみ。コルシカでは、最低重量を下回るまで軽量化が進むが、出力低下には対応出来ず、同年のラリー・カタルーニャで、リストリクターに車両規定に違反する細工が施されていたことが発覚。これはターボをクランプするとリストリクターがスライドし、その隙間から多量の吸気を得られるというものであった。結果、この年の全ポイント剥奪およびWRCへの1年間の出場停止処分がFIAによって下され、ST205型でのトヨタのWRC活動は2年足らずで終了した。出場停止期間に加えもう一年活動を自主的に休止したトヨタは1998年にWRCに復帰するが、新規定であるWRカーのカローラWRCを採用したため、結局セリカでのワークス活動は1995年が最後となっている。
このようにセリカのモータースポーツ史では汚点のような扱いを受けているST205型だが、アルミン・シュヴァルツがヨーロッパラリー選手権 (ERC) で総合チャンピオンを獲得している他、JGTCのGT300クラスでもRACING PROJECT BANDOHが運用し、2度の優勝を挙げている。
2000年にトヨタがNASCARの統括するレース(グッディーズ・ダッシュシリーズ)に初挑戦する際のベース車両として用いられた。V6エンジンを搭載したストックカーのセリカは、2001と2002年にランキング2位となり、2003年にドライバーズチャンピオンを獲得した。
SUPER GTのGT300クラスにはZZT231型セリカが2003年第三戦から登場。2003年度はウェッズスポーツ・シグマDUNLOPの2チームがセリカを投入した。3S-GTEエンジン・フロントダブルウィッシュボーンサスペンション等、多くのコンポーネントを前年のGT500スープラから流用し、FR化されたGT300セリカはデビューシーズンで両チーム合わせて4勝を挙げるなど結果を見せた。しかし、期待された2004年シーズン以降、コーナリングマシンとした車の特性もあり、絶対的なスピード不足に苦しむなど開発も難航。それでもウェッズスポーツにより2008年第二戦までZZT231セリカが使用された。
トヨタでは工場見学記念品として、見学に来た子供向けにモデルカーを配布しており、2014年現在は3代目プリウスがモデルとなっている。それ以前は歴代プリウス、2000GTだった。しかし、トヨタに寄せられた「セリカもあった」との声を受け調査が行われ、記録や図面、金型は残っていなかったが、最近になって偶然ゴミの中から実物(初代・A20/30型)が発見されたため、幻のモデルカーの実在が確かめられた。このモデルカーは現在歴代のモデルカーとともに、トヨタ会館で展示されている。展示の説明では1970年から2000GTであったとされていて、セリカの配布がいつ頃行われていたかは、記録が残ってないために明示されていない。
松任谷由実の時のないホテル収録曲の、「よそゆき顔で」には、『観音崎の歩道橋』といった具体的な地名とともに『白いセリカ』と本車種が具体的に挙げられている。なお、このアルバムが登場したのは1980年である。
トヨタ自動車のモータースポーツ
では、活動の歴史について記述する。レクサス、サイオン、GRなどの同社のブランドや豊田自動織機などトヨタグループの企業の活動に関してもここで述べる。
活動の最大の特徴は、ジャンルを問わない幅広さである。1960年代から今日に至るまで、プロトタイプカー・ツーリングカー・GT・ラリー・フォーミュラカー・オフロード・ストックカー・ダートオーバル・ドラッグレース・ヒルクライム、ドリフトなどあらゆる四輪競技に競技者あるいは支援者の形で関わり、数多の勝利とタイトルを収めてきた。
世界選手権においてはWRCで3度、WECで1度マニュファクチャラーズタイトルを獲得。また北米ではデイトナ500、インディ500、デイトナ24時間、セブリング12時間、パイクスピーク・ヒルクライム、バハ1000といった主要レース全てで総合優勝したことがあり、インディカー、NASCAR、IMSA、フォーミュラ・ドリフトなどシリーズ戦でもマニュファクチャラーズチャンピオンにも輝いた。
自らもドライバーとしてニュルブルクリンク24時間レースなどに参戦する豊田章男が社長に就任して以降は、トヨタのモータースポーツ活動はTOYOTA GAZOO Racing(TGR)のブランドのもとに「もっといいクルマづくり」「クルマファンづくり」の象徴として市販車開発とも強く関連づけられるようになった。その姿勢の原点として、創業者である豊田喜一郎の言葉が引用されている。
1960年代の体制はトヨタ自動車工業(自工)とトヨタ自動車販売(自販)の2系列に分かれていた。自工では第一回日本グランプリをきっかけに、自工・自販・ダイハツ・ヤマハ発動機・日本電装(現デンソー)のレース好きが集まる第7技術部(通称「ナナギ」)が発足。第7技術部は市販車の改造に加えてスポーツプロトタイプを開発し、ワークス格の「チーム・トヨタ」が日本グランプリなどの主要イベントに参戦した。自販はトヨペットサービスセンター特殊開発部(通称「綱島」)がツーリングカーのチューニングを行い、若手ドライバー主体のセミワークス的な活動を行った。
1971年にはワークス活動からクラブチームのTMSC-Rを支援するセミワークスに切り替えたが、オイルショックの影響で1974年に国内のレース活動を休止する。一方で海外では世界ラリー選手権 (WRC) に参戦する「トヨタ・チーム・ヨーロッパ (TTE) 」への支援を継続した。
2000年には富士スピードウェイを買収し、約200億円を投じて近代化改修を行い、2007年と2008年にはF1日本グランプリを開催。2012年からはWECを招致している。
なお1981年にレース活動を再開してからは、系列3部門が各地域のモータースポーツ活動を担当した。これらの部門の統括は従来本社のモータースポーツ部 (MSD) が担当していたが、2014年の組織改編でMSDは「モータースポーツユニット開発部」と名称を変更して技術系の業務に専念することになり、マーケティングについてはトヨタ全体のマーケティングを担当するトヨタモーターセールス&マーケティング(TMSM)に移管され分裂。
しかし2015年には組織改編で再びモータースポーツ活動全般の機能をトヨタ本社に集約することになり、新たに設けられた「モータースポーツ本部」が開発・マーケティングの双方を統括、「GAZOO Racing」の統一名称で活動を行うことになった。
1957年(昭和32年)、オーストラリア1周ラリーに招待され、クラウンで出場して完走、総合47位(外国賞3位)となった。これがトヨタのモータースポーツ活動の原点であるとされる。
その後、1973年(昭和48年)から1999年(平成11年)まで世界ラリー選手権(WRC)にトヨタ・チーム・ヨーロッパ (TTE) がカローラレビン、セリカ、スープラで参戦していた。1975年(昭和50年)の1000湖ラリー(フィンランド)での、カローラレビンによるWRC初制覇に始まり、TA64型セリカで1984年(昭和59年)、1985年(昭和60年)、1986年(昭和61年)とサファリラリー3連覇を達成した。
1988年(昭和63年)、WRC王座獲得を目指すべくツール・ド・コルス(フランス)でグループA規定のST165型セリカをデビューさせ、当時最強を誇っていた王者ランチアに挑み、熾烈な戦いを繰り広げることになる。そして1990年(平成2年)、ついにランチアを打ち破ってカルロス・サインツ/ルイス・モヤ組が日本車初のドライバーズチャンピオンを獲得する(スペイン人としても初)。またST185型セリカにスイッチした1992年(平成4年)にもサインツはチャンピオンになる。
1993年(平成5年)には日本の自動車メーカーとして初めてマニュファクチャラーズタイトルを獲得(ドライバーズとの2冠)、1994年(平成6年)も続けてダブルタイトルを制覇した。1994年(平成6年)のサンレモ・ラリーでは、ユハ・カンクネン/ニッキー・グリスト組により、ST185型セリカに変わってST205型セリカがデビューした。
1995年(平成7年)はST205の開発がうまくいかず、わずか1勝と苦戦。そしてラリー・カタルーニャでエンジンの吸気量を制限するリストリクターに意図的に細工を施すという行為が発覚した。エアリストリクターが装着されたトランペット状の部品単体では問題ないが、エンジンに取り付けると吸気の負圧でパーツがスライドして隙間ができ、その隙間から空気を吸入しパワーを上げるというものだった。国際自動車連盟 (FIA) は1995年(平成7年)シーズンのドライバー及びマニュファクチャラーの全ポイント剥奪と1996年終了までの出場停止処分を発表した。トヨタ側はこの処分を重く受け止め、さらに一年間活動を自粛したが、後にトヨタ復帰を願う声を受けて1997年の終盤にテストを兼ねて参戦を再開した。
このときセリカ譲りの3S‐GTEエンジンを搭載した、よりコンパクトなカローラWRCへとスイッチしており、このWRカーはすぐにタイトルを争う戦闘力を発揮。1998年(平成10年)はオリオールに加えて、サインツがフォードから移籍。サインツが開幕戦で優勝を飾るなど2勝をマークし、マニュファクチャラーズランキング2位でシーズンを終えた。最終戦はサインツがタイトルまであとわずか数百メートルというところでエンジンブローという悲劇的なものだった。
1999年(平成11年)は優勝こそチャイナ・ラリーのみだったもののコンスタントに上位入賞を繰り返し、5年ぶり3度目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得。しかし、サンレモラリーの直前にTTEはWRC撤退とF1参戦を発表、27年にも及ぶ日本最大のマニュファクチャラーのラリーへの挑戦は7度のタイトルと43度の勝利を持って幕を閉じた。
2015年(平成27年)1月30日にトヨタはWRCへの復帰を表明し、2017年(平成29年)からヤリスWRCで参戦開始。シャーシ開発とオペレーションをトミ・マキネン・レーシング、エンジン開発はTMGが担当する。開幕前はマシン開発の遅れが懸念されていたが、フォルクスワーゲンから移籍してきたヤリ=マティ・ラトバラ/ミイカ・アンティラ組が復帰初戦ラリー・モンテカルロで2位表彰台、2戦目のラリー・スウェーデンで早くも優勝を果たした。2018年には後半にオィット・タナック/マルティン・ヤルヴェオヤ組が3連勝を達成して終盤にマニュファクチャラーズランキング首位に浮上し、そのままタイトルを手中に収めた。
2018年終了時点の通算成績はドライバーズタイトル4回、マニュファクチャラーズタイトル4回、勝利数50勝である。
1983年にカール・ウェルズのPPI(Precision Preparation, Inc.)を支援する形で、北米のラリーレイド及びクローズドで開催されるオフロードレースに参戦。初年度でのドライバー・メーカータイトルを獲得した。以降1984年から1999年までオフロード界を席巻し、のマニュファクチャラーズタイトルを11連覇した。その後もタンドラ・タコマがトラックを用いたオフロードレースで現在に至るまで圧倒的な活躍を見せ、MTEG、、などの各団体で圧倒的な数の総合タイトルをさらっていった。また1992年と1999年にはバハ1000で総合優勝を果たしている。
北米以外では、1995年からはトヨタ車体がTLC(チーム・ランドクルーザー)を組織してランドクルーザーでダカールラリーに挑戦しており、市販車無改造のディーゼル部門において1996年から2018年までの21回の開催中、6連覇を3度含む18回のクラス優勝を手にしている。
2012年からは南アフリカ法人のトヨタが改造したハイラックスで最高峰クラスに挑戦、2019年に8台体制を敷いてきたMINIのワークス勢を破ってナッサー・アル=アティヤ/マシュー・バウメル組が念願の総合優勝を果たした。。このハイラックスはクロスカントリーラリー・ワールドカップにも参戦しており、2016・2017年にアル=アティヤ/バウメルによってドライバー・チームタイトルを獲得している。
耐久性の高いトヨタ車はプライベーターチームの間でも人気があり、ランドクルーザー、ハイラックス、スターレット、カリーナ、カローラレビンなどが古くから参戦した。1982年には久保田勝/内田正洋組がカリーナ1500で市販車無改造・2輪駆動・バギー・マラソンの4部門において優勝するという快挙を成し遂げた。
また2017年のダカールは、四輪車部門79台のうち36台がトヨタ車という人気ぶりであった。
ヴィッツの生産を担当している豊田自動織機がチームを組織して、ヴィッツによるラリー活動を行っている。同社の社員でもある天野智之/井上裕紀子組が猛威を振るい、同チームは9年連続でクラスチャンピオンを獲得している。
また「凄腕技能養成部」を編入したTOYOTA GAZOO Racingが2015年から参戦し、スポーツCVTの研究やヴィッツGRMNによる挑戦をしている。
トヨタが初めてスポーツプロトタイプのレースに参加したのは1966年(昭和41年)の第3回日本グランプリである。ただしマシンは市販前の2000GTで純粋なレーシングカーではなく、プロトタイプカーのポルシェ906やプリンスR380に後れを取っていた。
トヨタは1967年の第4回日本グランプリを欠場して、翌1968年(昭和43年)に自社初のプロトタイプレーシングマシン、3リッターV型8気筒エンジン搭載のトヨタ・7をデビューさせる。5月の'68日本グランプリでは日産・R381に敗れたものの、その他のレースで勝利を収める。日産が日本グランプリ以外に消極的であったのに対して、トヨタは耐久レースに積極的に参戦したため「耐久のトヨタ」と呼ばれた。
翌1969年(昭和44年)には5リッターV型8気筒エンジンを搭載するトヨタ・7の第2期モデルが登場する。このマシンもデビュー戦の7月の富士1000kmで勝利を収め、続く8月のNETスピードカップも日産R381を破り優勝。また11月の第2回日本Can-Amも制するが、肝心の10月の日本グランプリでは6リッターV型12気筒エンジンを搭載する日産・R382の前にまたも涙を飲んだ。
翌年に向けてトヨタは日本初の5リッターV型8気筒エンジンにターボチャージャーを装着した第3期モデルのトヨタ・7を開発するが、日産が1970年の日本グランプリの欠場を表明したため、トヨタも欠場することとなる。トヨタの目は世界に向けられ、トヨタ・7ターボでのCan-Amへの挑戦を決意するが、それが決定したまさにその日、鈴鹿サーキットでトヨタ・7ターボをテスト中の川合稔が事故死、これによりトヨタ・7のプロジェクトは白紙にされてしまう。以降1980年代までトヨタはプロトタイプカーのレース活動を中断することになる。
1975年(昭和50年)にはシグマ・オートモーティブ(SARDの前身)にエンジンを供給し、シグマ・MC-75がル・マン24時間レースに参戦した。また、1973年にマツダのロータリーエンジンを搭載したシグマ・MC-73のリアウィングには「TOYOTA」のスポンサーロゴが書かれている。
1982年(昭和57年)に世界耐久選手権(WEC)の日本ラウンド (WEC-JAPAN) が初開催されると、童夢とトムスが共同開発したグループCカー、トムス童夢・セリカCにWRC用エンジンをベースにした4気筒ターボエンジンを供給した。
1983年(昭和58年)から始まる全日本耐久選手権(1987年(昭和62年)より全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権=JSPC)にも参戦。童夢とトムスの共同開発によるトムス・83C(1983年) - 88C(1988年(昭和63年))を経て、8気筒ターボエンジンを新開発し、88C-V(1988年) - 92C-V(1992年(平成4年))を送り込む。1987年(昭和62年)からはトヨタの名を冠した「トヨタチームトムス」として参戦を開始。TRDが開発を主導することになり、マシン名も「トムス」から「トヨタ」となり、オイルショック以降中断していたワークス活動の事実上の再開となった。
1985年(昭和60年)からはル・マン24時間レースにも参戦を開始し、1989年にはイギリスのトムスGBを拠点として世界スポーツプロトタイプ選手権 (WSPC) にもフル参戦する。ル・マンには1990年(平成2年)まではターボエンジン車で参戦し、1992年、1993年には当時のF1と同じ規定で造られた自然吸気3.5リッター10気筒エンジンを搭載したTS010で参戦。1992年のスポーツカー世界選手権 (SWC) 第1戦のモンツァで、日本人の小河等が優勝している。同年のル・マンでは関谷正徳が日本人で初めて総合2位表彰台に上がった。
1993年にはサードの93C-VがC2クラス優勝を獲得している。1994年にはサードが92C-Vを改造した94C-Vで出場、しかしポルシェ962CをGTとして改造した掟破りとも言えるダウアー962GTの前にまたも2位に終わる(LMP1/C90クラス優勝)。1995・1996年には続けてサードがスープラでGT1クラスに参戦したが、クラス8位・15位に終わった。
1998年(平成10年)から1999年(平成11年)にかけては、TTEを中心に開発したToyota GT-One (TS020)でル・マンに参戦。マシン性能は他社に比べて優れていたが、マシントラブルのために最高成績は1999年の総合2位止まりに終わる(LMGTPクラス優勝)。
その後10年以上はF1参戦のため途絶えていたが、2012年にハイブリッドエンジンを搭載するTS030 HYBRIDで、ル・マン24時間を含むFIA 世界耐久選手権に復帰。オペレーションはTMGとオレカがジョイントして行うことになった。日本人ドライバーとして石浦宏明が参戦する予定であったが、腰を痛めていたこともあり中嶋一貴が代わりに参戦、そのままレギュラーとなった。
TS030はル・マンでは途中首位を奪うシーンもあったものの、2012年は2車ともリタイヤ、翌2013年のル・マンは2位と4位に終わった。しかしWECでは活躍し、2012年のFIA 世界耐久選手権6戦と2013年のFIA 世界耐久選手権全8戦の計14戦中5勝を挙げた。
2014年からはトヨタ初の四輪駆動LMP1であるTS040 HYBRIDを投入した。ル・マンでは中嶋一貴が日本人で初めてPPを獲るものの、豪雨でのクラッシュとマシントラブルで3位に終わった。一方WECでは全8戦に出場し5戦で優勝したことによりマニュファクチャラーズランキングとドライバーズランキング(トヨタ2車が同点優勝)の両方で悲願のスポーツカーの世界選手権タイトル獲得を果たした。
2015年は、大量の開発費を投入してル・マンで5秒ものタイムゲインをしたポルシェ・アウディについていくことができず、良いところ無く一年を終えている。
2016年はル・マンで勝利することのみを主眼に置いたTS050を、突貫で開発し一年前倒しで投入。その甲斐あってル・マンでは終始有利な展開で進めたが、残り数時間で2位争いをしていた小林可夢偉がスピンし、ポルシェに2位を盤石にされる。さらに残り6分でトップ快走中の中嶋一貴のマシンに駆動系トラブルが発生、ホームストレート上にストップし、ル・マン制覇の悲願は露と消えた。またWECでは苦戦を強いられたが、富士では戦略とこの年デビューした小林可夢偉の頑張りによって2秒差でアウディから逃げ切って約二年ぶりの勝利を挙げた。
2017年のル・マンは三台体制となり、3台目に前年スーパーフォーミュラ王者の国本雄資がエントリーした。ル・マンでは小林可夢偉がコースレコードを更新する走りで予選ポールポジションを奪取。決勝も最初の6時間を1-2体制でレースを支配したものの、3台ともトラブルに見舞われた。特にトップを快走していた7号車のトラブルは、夜間のSC中のピット出口の赤信号で止まっていたところ、マーシャルと同じ橙色のレーシングスーツを着たアマチュアドライバーが応援のためにサムアップしに来たのを、発信可の合図と勘違いした結果起きたという信じられないアクシデントによるものだった。結局この年は8号車が総合8位(クラス2位)に入るにとどまった。WECシリーズを通してはル・マン以降は劣勢であったもののその後挽回し、タイトルには届かなかったが、優勝回数でポルシェを上回った。
2018年のル・マンはTS050二台体制で出場し、セバスチャン・ブエミ、フェルナンド・アロンソ、中嶋一貴の8号車が優勝、小林可夢偉らの7号車が2位となり、20回目の挑戦にして初めてル・マン総合優勝を成し遂げた。日本メーカーとしてはマツダ(マツダ・787B)以来27年ぶり2度目、日本人ドライバーとしては荒聖治(チーム郷、アウディ・R8)以来14年ぶり3度目のル・マン総合優勝であり、日本メーカーの車両に日本人ドライバーが搭乗して優勝するのは初めてであった。
1968年SCCAに2000GTが参戦したのが、トヨタの北米スポーツカー初参戦となる(年間クラス4位)。その後はトヨタ・7での北米進出を目論んだが、前出の通り頓挫した。
1981年にIMSAのGTUクラスにセリカを投入。1983年にはダン・ガーニー率いるオール・アメリカン・レーサーズ (AAR) と提携し、1985年にGTOクラス初優勝を経て、1987年に日本メーカーとして初めてGTOクラスタイトル獲得した。
1989年よりIMSA最高クラスのGTPクラスにステップアップ。1991年にはトヨタの2.1リッター直4ターボエンジン(3S-G改)を搭載するイーグル・マークIIIを投入。ライバルが戦意喪失して撤退するほどの勝ちまくりぶりで、1992年と1993年にドライバーズ(ファン・マヌエル・ファンジオ2世)とマニュファクチャラーズタイトルを連覇、1993年デイトナ24時間レースと1992・1993年セブリング12時間レースでも勝利を収めた。なお1993年のタイトルは全戦全勝で収めている。
2004年から2009年にもレクサスのエンジンを供給する形でグランダムのロレックス・スポーツカーシリーズに参戦、チップ・ガナッシとともにデイトナ24時間を3連覇、2008年のドライバーズタイトルを獲得している。
ニュルの耐久レースに始めて参戦したのは、1973年のセリカ1600GTが初であった。6時間耐久であったこのレースには、後に豊田章男の人生の師となる成瀬弘もドライバーとして参戦していた。ピットのガレージを用意してもらえず、傘をさして屋外で作業するなど過酷な環境の中2リットルクラスで優勝(総合6位)し、会場から拍手が巻き起こった。なおこのセリカは同年スパ24時間にも参戦し、クラス優勝(総合9位)を獲得している
2005年にはハイブリッドカーのレクサス・RX400hで参戦。完走させることに成功した。
2007年にはTeam Gazooとして当時のトヨタ副社長である豊田章男が社員だけで構成されたチームを率いて、SP3クラスにアルテッツァRS200二台で参戦。当初は「トヨタ」を名乗ることが許されなかったというが、豊田が社長に就任してからも差別化のためかあえて「トヨタ」を名乗らずに活動を続けた。なお、現在も用いられている黒と赤の「GR」のロゴは2010年から使われている。
2008年には発売前のLFAがSP8クラスに参戦。以降2009~2011年にLFAの2台体制で参戦、2010年にクラス優勝した。なお、このとき同じピットであったアストンマーティンのCEO・ベッツと章男は親交を深め、2012年のVLNのコラボレーション参戦や、トヨタ・iQをベースにしたアストンマーティン・シグネットの誕生が実現している。
2012~2013年はLFAを1台に減らし、代わりにこの年発売となった86を2台採用した。2013年にLFAがSP8、86がSP3クラスで優勝を飾った。
2014年はLFA、86各1台に加えてLFAの特別仕様車「LFA Code X」がSP-PROクラスに参戦。3クラス全ての参戦車両がクラス優勝を収めた。
2015年はLFA Code XとレクサスRCの二台体制で、LFA Code Xが前年に引き続きクラス優勝した。
2016年はレクサス・RCとRC-Fに加え、2005年以来となるSUVのC-HR Racingが参戦。これに市販車C-HRの開発責任者も乗り込み、燃料計算のミスなどはあったものの完走。半年後の発売に向けて実りあるテストになった。
2017年はSP3TクラスにRC一台のみで参戦。スバル・WRX、アウディTT RS2との三つ巴の戦いの中、スバルを上回るクラス2位を獲得した。
2018年はSP-PROクラスに研究開発目的のレクサス・LCを投入。トラブルに見舞われながらも完走を果たした。
フォーミュラにおけるトヨタは、1974年にイタリアのノバ社がチューニングしたトヨタ2T-GエンジンがヨーロッパのF3界を席巻したことに始まる。特にイギリスF3では9年連続でチャンピオンエンジンになる強さを見せた。このエンジンは日本にも逆輸入され、1979年から始まった全日本F3選手権でも他メーカーを圧倒した。そのため中嶋悟が1978年にイギリスF3に参戦した際もトヨタエンジンを用いている。
1980年代にはトムスがチューニングした3S-GEエンジンが登場し、こちらもライバルの無限を圧倒して多くのタイトルを獲得している。またマカオGPでも通算7勝を挙げる活躍を見せており、1983年にアイルトン・セナがマカオGPを制したときのマシンもトヨタエンジンを搭載していた
。全日本F3へのエンジン供給は現在まで続いており、最もチャンピオンを輩出しているエンジンとなっている。また1989年から2005年までフォーミュラ・アトランティックにTRD USAのチューニングした4A-GEエンジンを供給したり、1991年から2007年までフォーミュラ・トヨタを、2005年から現在までオセアニアでトヨタ・レーシング・シリーズを開催するなど、育成としてのフォーミュラには特に積極的である。またトヨタは関わってはいないが、ユーロフォーミュラ・オープンでも前身であるスペイン選手権の2001年以来現在までトヨタエンジンが使用されている。
トヨタ初のビッグフォーミュラ参戦は1996年(平成8年)アメリカのチャンピオンシップシリーズ (CART) である。エンジン供給の形で、IMSAでもジョイントしていたAARと参戦したが、当初は戦闘力も信頼性も無くエンジンの熟成には時間を要した。しかし2000年(平成12年)にはファン・パブロ・モントーヤのドライブでCART初勝利を達成。2002年(平成14年)にはドライバーズ(クリスチアーノ・ダ・マッタ)、マニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得した。
2003年(平成15年)からはホンダと共にインディカー・シリーズへ転身し、世界3大レースのひとつであるインディ500を日本メーカーとして初めて制覇。さらに参戦初年でドライバーズ(スコット・ディクソン)、マニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得した。しかし2005年にNASCARに集中するとして撤退した。
F1にはシャーシ・エンジンとも自製するフルコンストラクターとして2002年(平成14年)から参戦。エンジンはウィリアムズにも供給された。しかしリーマン・ショックの影響で2009年(平成21年)シーズン終了後に撤退を表明した。ポールポジション3回と13回の表彰台を獲得したが、コンストラクターズランキングは最高4位に留まり、優勝は一度も達成できなかった。
国内では2006年(平成18年)より現在までフォーミュラ・ニッポン・スーパーフォーミュラにエンジンを供給している。2018年現在までトヨタ勢はホンダ勢を圧倒し続けており、13年間のうちにドライバータイトル10回・チームタイトルを12回獲得している。
1963年(昭和38年)に初開催された日本GPにパブリカ、コロナ、クラウンが出場。「レースには積極的に関与しない」という国産メーカー間の紳士協定の裏で、トヨタ自工は密かにチューンした「裏ワークスマシン」を投入して出場3クラスを制覇した。その成績を大々的に宣伝したことがプリンスなど他メーカーを刺激し、ワークス対決のきっかけとなる。
市販車ベースのレースでは、2000GTと1600GTやS800が活躍した。1966年の鈴鹿1000kmレースでは二台の2000GTでワンツーフィニッシュ、翌年も鈴鹿500kmレースで優勝、1967年の富士24時間レースではスポーツ800とともに3台揃ってデイトナフィニッシュする完勝を収めた。1600GTのプロトタイプは「RTX」の名で自工ワークスが使用し、ツーリングカーの公認を得てからはプライベーターにも愛用され、日産スカイライン2000GTの牙城を崩した。
1970年代はカローラ / スプリンター、セリカ、スターレットなどが活躍。ワークス活動休止後はプライベーターに放出され、マイナーツーリングレースで激戦を展開した。1982・1986・1987年にはイギリスツーリングカー選手権(BTCC)でカローラがドライバーズ王者マシンになった。1991年から1995年にはワークスで参戦し、多くの勝利を挙げたもののタイトル獲得はならなかった。
1994 - 1998年には全日本ツーリングカー選手権 (JTCC) に参戦し、ドライバー部門で2度、チーム部門で1度タイトルを獲得。1994年(平成6年)第4戦からは全日本GT選手権(JGTC:現・SUPER GT)に参戦。GT500クラスでは2005年までスープラで4回、2006~2013年はレクサスSCで3回、2014~2016年はRC Fで1回、2017~2018年はLC500で1回ドライバーズチャンピオンを獲得している。
GT300クラスにもレクサスISやMR-Sで参戦、MR-Sではaprの運用により3回のドライバーのドライバーズタイトルを獲得した。2009年からはカローラアクシオ、2012年よりプリウスに車両が変わっている。また2015年よりLM corsaによってRC F GT3が参戦している。また開発・生産には関わってはいないが、2015年から導入されたマザーシャシーに86の外観が用いられている。
2017年からはレクサス RC-F GT3で海外にも戦場を求め始めており、IMSAのGTDクラスと欧州のGTオープンにセミワークス参戦を開始。2018年にIMSA及びブランパン耐久で初優勝を挙げている。
2000年(平成12年)、アメリカのストックカーレースであるNASCARのグッディーズダッシュシリーズにV6エンジンのセリカで参戦したのが最初である。2001年、2002年と総合2位になった後、2003年には初めてNASCARの主催するシリーズでドライバーズタイトルを獲得した。
2004年(平成16年)にはNASCAR三大シリーズの一つであるクラフツマントラックシリーズ(現・キャンピング・ワールド・トラック・シリーズ)にタンドラでステップアップ。三年目の2006年(平成18年)にはドライバーズ、マニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得。その後2017年に至るまで当シリーズで最もマニュファクチャラーズタイトル獲得数の多いメーカーとなって猛威を振るっている。
トヨタ北米進出50周年でもある2007年には、最高峰にあたるネクステルカップシリーズ(現・モンスターエナジー・NASCARカップ・シリーズ)とブッシュシリーズ(現・エクスフィニティ・シリーズ)へカムリでデビュー。翌年の第4戦アトランタで、外国車メーカーとしては1954年(昭和29年)のジャガー以来、日本車メーカーとしては初となる最高峰カテゴリーでの優勝を果たした。
2015年にはカムリを駆るカイル・ブッシュが骨折により開幕戦から11戦目まで欠場という絶望的な状況を大逆転し、日本車初の最高峰でのドライバーズタイトルをもたらした。2016年にはデニー・ハムリンがやはり日本車初となるデイトナ500優勝、シリーズでも日本車初(アメリカ以外の自動車メーカーとしても初)のマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。なお2016年はエクスフィニティ・シリーズでドライバー・マニュファクチャラー・オーナー・ルーキー、キャンピング・ワールド・トラック・シリーズでもマニュファクチャラー・オーナー・ルーキータイトルを獲得しており、三大シリーズ戦のマニュファクチャラー部門全てをトヨタが制す大成功の年となった。また同年トヨタのマーティン・トゥーレックス・ジュニアがコカ・コーラ600で全400周中392周、588マイルというリードラップ最長記録を達成している。
2017年はシーズン前半は苦労したが、後半からトゥーレックス・ジュニアとブッシュが2人で13勝(トヨタ全体では19勝)を挙げる活躍を見せた。最終戦ではトゥーレックス・ジュニアが優勝し、ドライバー・マニュファクチャラー・オーナー・ルーキーの四冠を同時に達成した。
ドラッグカー最大のシリーズであるNHRAに2002年からTRD USAの開発したセリカベースのマシンで、ファニーカークラスから参戦を開始。2004年に初勝利を挙げ、2008年にソアラ、2015年にカムリでクラスタイトルを獲得した。最高峰のトップフューエルクラスにはマルコ・ツールズとジョイントして2010年に転向、その年にタイトルを獲得。その後2011年・2012・2015・2016年にもドライバーズタイトルを勝ちとった。
パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムにも参戦しており、TRD USAが開発したセリカGT AWDターボをロッド・ミレンがドライブし、1994・1996・1997年に総合優勝。1998~1999年はタコマにマシンを替えてこれも連覇、合計5度の総合優勝を成し遂げている。なお1994年のコースレコードは、2007年に破られるまで最速タイムであった。2012年にもTMGの開発したEVユニットを搭載した『EV P002』が哀川翔率いるチームのもと参戦し、EVクラス優勝(総合6位)を果たし、コースレコードも樹立した。
フォーミュラ・ドリフトでは若者向け北米限定ブランドサイオンのチーム『サイオン・レーシング』を組織して2008年から参戦。マシン開発及びらの支援をして、4度のマニュファクチャラーズカップを獲得した。サイオンブランドが廃止になって以降もトヨタ・レーシング名義で参戦している。
日本のD1グランプリではワークスでは関わってはいないが、OTGモータースポーツは2013年から86にTRD USA製のNASCARのV8エンジンを搭載している。
ダートオーバルにも参画しており、2006年からUSACの主催するミジェットカー・スプリントカーレースにエンジンを供給している。
2018年11月に初開催された第1回グランツーリスモ選手権マニュファクチャラーシリーズに参戦し、レクサスとトヨタで1-2フィニッシュを飾った。
2019年にTOYOTA GAZOO Racingはe-Motorsportsに本格的に参入することを表明し、手始めにグランツーリスモSPORTとの協力により、新型GRスープラを用いたe-Sportのワンメイクレース『GR SUPRA GT Cup』を開催するとしている。
アマチュアおよびモータースポーツ入門者向けのカテゴリとして、大規模なワンメイクレースの運営を行っている。1981年には国内初のワンメイクレースとして「スターレット・グランドカップ」を創設。2000年にはこれを引き継いで、ヴィッツやアルテッツァで参加する「ネッツカップ」を開催。ヴィッツレースは趣味で参加できる「ナンバー付き車両レース」として2018年現在も人気を博している。
2013年には86及びスバル・BRZによって争われる「GAZOO Racing 86/BRZ Race」もスタートさせ、多数のプロドライバーやタイヤメーカーが参入する一大カテゴリに成長している。
フォーミュラカーでは1991年(平成3年)より2007年(平成19年)までジュニア・フォーミュラシリーズとしてフォーミュラ・トヨタを主催。2006年(平成18年)~2013年(平成25年)には日産・ホンダと共同でフォーミュラチャレンジ・ジャパン(FCJ)を運営していた。また若手レーシングドライバー育成プロジェクトとしてフォーミュラトヨタ・レーシングスクール(FTRS)やトヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム(TDP)を運営。中嶋一貴、小林可夢偉をF1ドライバーとしてデビューさせた。また2004年からニュージーランドで、若手育成のためにF3相当のを開催し、ブレンドン・ハートレイ、アール・バンバー、ニック・キャシディらを輩出している。
またラリーでも2000年から、ワンデイ開催の初心者向けラリーシリーズである「ラリーチャレンジ」を自動車メーカーで唯一開催している。2015年にWRC復帰を発表した後はWRCのための育成プログラムを立ち上げ、全日本ラリー王者の息子勝田貴元と新井大輝、コ・ドライバー王者の足立さやかを欧州で修行させている。
豊田章男が社長になって以降は特にモータースポーツを広報活動に積極的に用いており、地上波でTOYOTA GAZOO RACINGのCMが流れることが一般的になった。豊田自身も「モリゾウ」名義でGRラリーチャレンジや新城ラリーに参戦してファンと交流したり、TV番組やトークショーにも出演してモータースポーツをアピールするなど、顔の見える経営者として知られる。またJスポーツと提携して、GAZOO RACINGのホームページ上でル・マン24時間やニュルブルクリンク24時間レースを無料ライブ配信している。
社員の研修にモータースポーツを用いることにも熱心で、全日本ラリー選手権に選りすぐったメカニックたちで組織した「凄腕技能養成部」を送り込んだり、5大陸走破プロジェクトで社員にステアリングを握らせて様々な道を経験させている。