プジョー205の価格・スペック

プジョー205の燃費・価格・馬力・車検費用など基本スペックを全て調べることができます😏

205

プジョー205
販売期間:1988年05月から1994年12月

新車価格:179万万円から306万万円(※最新情報は、公式サイトをご確認ください。)
前輪:185/55VR15
後輪:185/55VR15
(タイヤサイズ)
ホイール:/
馬力:120ps 15.2/3000
燃費:JC08モード:- 10・15モード:-km/L
エンジン型式:
車検費用(参考):(※最新情報は、車検の依頼先にてご確認ください。)
#買取相場 #売り方 #205

歴代の205一覧

205オーナーが購入している売れてるアイテムやお買い得なアイテムをランキング形式で紹介しています😏

プジョー205の売れ筋アイテム

プジョー205とは



全てのグレードをみる

表示されていない「 プジョー205」の全てのグレードを一気に表示して確認できます。



プジョー・205とは?

205以外の車種を調べたい方はこちらから検索することができます。

プジョー205の新車情報

プジョー205の最新情報まとめ

プジョー・205

プジョー・205

プジョー205(Peugeot 205 )は持株会社による企業グループPSA・プジョーシトロエンをシトロエンなどとともに形成するプジョーが、1983年~1998年にかけて製造し、販売した小型のハッチバック型自動車である。

スタイリングは社内のデザイン部門であるスタイル・プジョーとピニンファリーナの合作によるものである。ピニンファリーナ側のデザイナーはレオナルド・フィオラヴァンティである。

のちに追加されたカブリオレ型のデザイン及び、車体組み立てやトップの製作はピニンファリーナが担当した。

テレビドラマや雑誌などにも数多く登場し、それまでの日本ではクルマ好き以外にはほとんど無名であったプジョー・ブランドを一般に浸透させた記念碑的モデルと言える。

のちに姉妹車として3ボックスの309がデビューしており、こちらも日本に導入された。

1983年に104の後継車種として欧州でデビューした。

1988年にはスズキを通して、一部のスズキカルタス店でも販売を開始、都内のプジョーの主要ディーラーであった「日商岩井自動車販売」(現:プジョー東京)も当初はスズキから供給を受けた。

1994年2月に306が登場すると同時にバリエーションが整理された。

1995年末頃に国内販売が終了。海外では1998年まで生産された。なお、モデルナンバーとしても後継車と言える206は1998年に発表され、日本には1999年5月に導入されている。

欧州での発表は1983年。1986年の日本導入と同時に販売開始されたイメージリーダーとも言えるホットハッチ。当初は1,600cc(105PS/115PSが存在)の左ハンドル・5速マニュアルトランスミッションモデルのみであったが、1988年にストロークアップにより排気量が拡大された1,900cc(100PS)モデルが導入されると同時に右ハンドルモデルが追加された。1989年には4速オートマチックトランスミッションモデルも追加。5速MTモデルは120PSとなり、4輪ディスクブレーキ、15インチホイールを装備した。のちに4速オートマチックトランスミッションモデルも120PSとなった。1991年よりパワー・ステアリングが搭載されるなど装備の一層の充実がはかられた。

1987年日本導入開始、当初は1,600cc、115PSの左ハンドル・5速MTモデルのみだった。1988年に僅かながら後期型インパネの左ハンドル車が存在した。直後にGTI同様1,900cc(100PS)に排気量を拡大、後期型インパネの右ハンドルモデルが登場。1989年後半からは4速オートマチックトランスミッションのみの設定となった。のちにソフトトップの開閉が電動化され、1,900ccエンジンはGTIと同じ120PSとなった。ピニンファリーナ製の美しいカブリオレは女性にも人気を博した。

1984年発売。1,800ccのターボチャージャー付きエンジンをミッドシップに搭載し、四輪駆動化された世界ラリー選手権グループBカテゴリー参戦の為のスペシャルモデル。ホモロゲーション取得のために販売されたロードバージョンは200ps/6750rpmであったが、競技用のワークスカーは205T16E1で350馬力、205T16E2は450馬力を発生したと言われている。ロードバージョンのserie200の総生産台数は200台であった。競技用ワークスカーは参戦当時E1・E2合わせて20数台が製作されたとされているが、日本には並行輸入されたロードカーのみが10数台存在するものと思われる。

1980年代から1990年代初頭にかけて、プジョーはモータースポーツ部門であるプジョー・タルボ・スポールが中心となって活躍していた。当時のディレクターはジャン・トッドであった。このプジョー・タルボ・スポールの手によって1984年のWRCツール・ド・コルスにて205T16E1がデビューし、初戦で2位を獲得。その後も強豪ひしめく群雄割拠のグループBの中でもランチア・ラリー037、アウディ・クワトロ、ランチア・デルタS4といった強敵に互角以上に打ち勝ち、数戦後には更に戦闘力を高めた改良型205T16E2を投入する磐石のシーズン運びを見せ、結果1985年ティモ・サロネンと1986年ユハ・カンクネンの2年連続でドライバーとマニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得するに至った。

登場当時覇を誇っていたフロントエンジン4WD車・アウディ・クワトロの牙城を崩し、ミドシップ4WD車のWRCにおける優位性を確立した。のちに、同様のコンセプト及び駆動系などのレイアウトを各メーカー毎の解釈に基づき製作されたランチア・デルタS4、MG・メトロ6R4、フォード・RS200などが続々と発表・実戦投入され、レイアウトはそのままにショートホイールベース化され更に過激な進化を遂げたアウディ・スポーツ・クワトロ等と共に、グループB最終年となる1986年までラリー・コンペティションの歴史に残るパワー戦争を繰り広げた。

1987年以降のグループB消滅後はE2ベースの205T16GRでパリ・ダカール・ラリーに参戦、後継の405T16GRと合わせると1990年まで四連覇するという快挙を達成、そのあまりの強さに「砂漠のライオン」として競合メーカーに怖れられ、のちにパリ・ダカを制する三菱自動車の挑戦をことごとく跳ね返した。

205は、全日本ラリー選手権に当時のインポーターであったARJのサポートにより参戦した。ライバルの通称・ハチロクと呼ばれるAE86型レビン/トレノと名バトルを繰り広げたのはあまり知られていない。なお同選手権に左ハンドル車として初めてエントリーしたマシンである。


詳しく見る