元東映の岡田忠弘投手を知ってますか? 1957年 東京六大学準硬式野球部随一の折紙つきの岡田投手の、東映フライヤーズ入りのきっかけとなったのはことしの八月末のこ

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匿名さんからの質問

元東映の岡田忠弘投手を知ってますか? 1957年 東京六大学準硬式野球部随一の折紙つきの岡田投手の、東映フライヤーズ入りのきっかけとなったのはことしの八月末のことだった。駒沢球場で対毎日戦をまえに激しい東映の練習が行われていた。この一団の中で岩本監督、米川主将の注視を浴びてテストを受けていた一人の選手がいたが、これが岡田選手だった。このときこの岡田選手はこう語っている。ボクは絶対の自信をもっていたのですが、やっぱりプロ野球の監督さんのみつめている間ではあがってしまいました。しかし、このとき岩本さんから君のボールはシュートがきいている。どうだね、やってみるかねといわれ、米川さんもスピードもあるし、努力すれば使えるだろう。まだ腕だけで投げている感じだが、ランニングをやってバネをつければ…。といわれたときは本当にうれしかった。これよりさき、ノンプロの明電舎からも引っぱられていたが、岡田はノンプロよりもプロに魅力を持っていた。もともと彼は硬球の出身で、二十八年の選抜大会を前に彼のいた栃木高は県下シード校にあげられていた。しかし投手兼遊撃手として大活躍したが彼一人ではどうにもならず敗れた。そして二十九年春明大の準硬式野球部に入った。硬式に入らなかったのは勉強したかったからといっている。そしてその年の秋のリーグ戦から明大準硬式野球部のエースとしてのリーグ対法大戦では三振十七個を奪うノーヒットノーランをやってのけた。彼のピッチングはあくまでも正統派でスピードを武器としている。スリークォーターから投げられる球は打者の手元へきて自然にシュートがかかる。自分では全く意識していないという。この点を岩本監督もかったものだろう。大学を通じリーグ成績は42勝20敗を記録している。五尺八寸、十九貫、右投右打と野球選手としては決して大きいとはいえない。しかし、その度胸のよさは輝くものだ。というのはボクシング選手としても一流の彼なのだ。二十八年の第八回国体には栃木県代表選手に選ばれ、フェザー級に出場した。ついさきごろ明大体育祭ではフェザー級チャンピオンを獲得した。プロ入りとこの優勝で学内の人気を一身にうけている。一月十五日から伊東でやるキャンプに入るのが待ち遠しいです。大橋さんの例もありますしボクとしても負けられません。一年ぐらいは二軍でみっちりやりたいと思っています。カーブをマスターしたいと思っています。幸い体には自信はあり、やれるところまでやってみるつもりです。と抱負を語る。この金の卵が温かい東映フライヤーズの中にかえり、育てられる元気な姿をみせるのもそれほど遠くはあるまい。

もちろん学習したので知ってます。 栃木県立栃木商業高等学校を卒業後、明治大学を経て、1958年に東映フライヤーズへ入団。 背番号41 この年には、東京六大学リーグ時代のライバルであった杉浦忠(立教大学卒)らも、自身と同時にプロ入りしている。 準硬式上がりの投手でもあった。 しかし、1年目から華々しい活躍を見せた杉浦達とは対照的に、中継ぎを中心とした地味な役回りに終始した。 フライヤーズが南海ホークスと熾烈な優勝争いを展開した1961年には、スライダー・カーブ・シュートを武器にプロ初勝利を含む3勝を挙げている。 1963年には広島カープへ移籍。 背番号33 自己最多タイの24試合に登板するも勝ち星には恵まれず、同年暮れに引退した。 通算77試合 3勝5敗。 先発も11試合任されていますね。 ボクシングが得意。 死球ぶつけられてもこの投手には突進していけないね。

#1957年

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みんなが知りたい質問

元西鉄の日野美澄選手を知ってますか? 1957年 早慶戦再度にわたる安打を放ち、神宮のヒーローとしてクローズ・アップされた慶大の日野美澄遊撃手(鳴門高出、二十二才)はかねてからプロ入りの希望をもらし、毎日、大映、東映、西鉄などと交渉があったが、六日西鉄入り希望の態度を明らかにした。
はじめ新聞社を志し、これから毎日の線がでたが、話はまとまらず大映の熱望に一時は大映入りの噂もでたが、二塁手に適材を得ない西鉄ががぜん本腰を入れて乗りだし、宇高スカウトの熱意が今回の西鉄内定にまで進んだもの。
なお正式契約はオール早慶戦終了後東京で行われる。
同選手は鳴門高時代から大型遊撃手として甲子園で名を馳せ、特に打力には将来を嘱望されていた。
慶大に入ると一年生の春早くも三塁手として神宮にデビュー、秋からは遊撃手としてレギュラーの一角をしめ、二年の春には三割八分強を打って首位打者となり、勝負強さを発揮していた。
特に学生野球最後の早慶戦には遺憾なく勝負師らしいところをみせ、この好打でベスト・ナインにも選ばれた。
日野選手談 就職の話は随分あったが、どうしてもプロでやりたかった、毎日を希望していたがダメになり、大映、東映からも話があり、特に大映は永田社長夫人の熱望もあり、はじめから在京球団を望んでいたので考えていたが、西鉄の宇高スカウトから条件のいい話があり、強いチームという魅力もあって西鉄入団を決意しました。
二塁ということですが、どこまでやれるかやってみなければわかりません、バッティングもフィールディングもいたらぬ点ばかりなので、みっちり練習をやり直して恥ずかしくない働きをしたいと思っています。
九州でのオール早慶戦が終ってから正式契約をするつもりです。