元東京の坂井勝二投手を知ってますか? 1966年 ネット裏で観戦していた成田が「坂井さんのスライダーは、ものすごい

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元東京の坂井勝二投手を知ってますか? 1966年 ネット裏で観戦していた成田が「坂井さんのスライダーは、ものすごい。あんなピッチングじゃ、近鉄さん、1点がとれるカナ。ぼくも、あんなスライダーを早くマスターしたい」とさかんに感心していた。内角に鋭いシュート、外角にはスライダーを配し、近鉄を3安打散発に押え、今シーズン二度目の完封をマークしてロッカー・ルームにひきあげてきた坂井は「はじめはボールが走らず苦労した。でも、六回に1点取ってくれてからは、ゆとりがでた。そうしたら、急にタマが走りだし、終わったから完封してた」とひとごとのような口ぶり。ビンちゃんのニックネームもこんな、のんびりムードからくる顔つきがマンガのビンちゃんに似ているので生まれたもの。こののんびりムードが、わざわいしてか、今シーズンの出足は悪かった。初白星は、六度目に登板した五月四日の近鉄戦。しかも、それまでに3敗を喫していた。それからも調子の波に乗れず、前半戦を5勝10敗で折り返した。それなのに、この夜、10勝目を完封で飾っても、うれしそうな表情は全然見せない。中西ピッチング・コーチ、田丸監督らに「ナイスピッチング」と背中をたたかれても「どうも」という軽い返事だけ。小山と並んで二本柱と大きな期待をかけられながら、終盤戦にきて、やっと到達した10勝ライン。それだけに、本気になって喜べないのかもしれない。「完封できたのは、ピッチングにゆとりがでたからだ。このリラックスさが前半戦にでておったら・・・」という。入団八年目を迎えベテランと呼ばれる男が、しみじみともらす。前半戦でのつまずきが、よほど骨身にこたえているのだろう。ネット裏でボールペンを走らせていた三宅スコアラーは「前半戦の不振は、シュートの切れと、外角に投げたストレートに伸びがなかったからだ。だが、きょうのピッチングは満点だ。外角のストレートはスライダーがかかり、シュートは内角を鋭くえぐっていた。完封は当然だヨ」という。ぶっちょうヅラで、10勝目のインタビューをつづけていた坂井だが、人垣がとけたところで「10勝じゃネ。あと5勝はしなくちゃ・・・」と真剣な表情。ビンちゃんとはぜんぜん別人だった。

知らなかったので調べました。 田川中央高校(現・福岡県立田川工業高等学校)を経て、専修大学に進学。 東都大学リーグでは在学中3度優勝。 3年生の1959年春季リーグでは6勝無敗で優勝に貢献し最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインを受賞する。 同年の全日本大学野球選手権大会では準決勝に進出するが早大に惜敗。 リーグ通算38試合に登板し18勝5敗、防御率1.20、145奪三振。 大学同期に山本兵吾、小池兼司、1年下に堀込基明がいる。 その後大学を中退し、大毎オリオンズに入団する。 4年目の1962年に11勝を挙げ、先発投手陣の一角にのし上がる。 アンダースローの速球派で、柔和なマスクとは裏腹に、歴代3位の通算143与死球という記録からうかがえるように強気の投球で鳴らした。 1964年には自己最多の25勝をマークするが、同年阪神から移籍した同僚小山正明が30勝を挙げ、最多勝には至らなかった。 1962年から1968年までの7シーズン連続二ケタ勝利を挙げているが、この時期はオリオンズにとって試練の時代で、Aクラス入りは1968年の1シーズンしかない(3位)。 坂井自身も7シーズンのうち5シーズンを負け越している。 かつて「ミサイル打線」を構成していた、田宮謙次郎の引退、山内一弘・葛城隆雄の移籍、榎本喜八の衰えなどで打線の弱体化が進んだことも、思うように勝ち星を増やせなかった一因であったろう。 1967年4月25日の対東映フライヤーズ戦では、9回終了まで無安打無得点に抑えるも味方の援護に恵まれず、10回についに力尽き、0-2で敗戦投手になるという憂き目に遭っている。 その10日前の4月15日の西鉄ライオンズ戦でも8回までノーヒットに抑えながら9回に初安打を許しており、わずか11日間で2度ノーヒットノーランのチャンスを作りながらその双方を潰されるという希有な体験をしている。 谷間の時代におけるオリオンズ投手陣の屋台骨を、小山正明・成田文男らとともに地道に支え続けていた。 1970年、王貞治キラーとして知られた平岡一郎とのトレードで大洋に移籍する。 翌年の1971年1月には暴力団との黒い交際の疑惑により、鈴木隆コーチとともに球団より無期限謹慎処分を受けるが(黒い霧事件)、処分解除後は8連勝をするなど活躍を見せ、初タイトルとなる最高勝率(9勝4敗、勝率.692)を獲得、また防御率も1.87(リーグ2位)をマークし大洋のAクラス入りに貢献する。 1976年、渡辺秀武とのトレードで日本ハムに移籍、同年シーズン終了をもって現役を引退する。 通算605試合登板 166勝186敗 防御率3.26 最高勝率:1回(1971年) オールスターゲーム選出:3回(1964年、1968年、1972年) 背番号 12 (1959年 - 1975年) 11 (1976年)

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元中日の早川実投手を知ってますか? 1976年 「オイ、前へ出てしっかり応援しろ」。
早川がナインにベンチ最前列へ引きずり出されたのが九回裏、大洋の攻撃が始まろうとするとき、早川は八回1イニングを投げたが、これがプロ入り初登板。
いきなり平松に1号ソロを浴びた。
「そのあとはタイミングを狂わせ、思い通りの投球が出来たんですが・・・。
別に緊張したわけではありません。
ボクは実績がないのでいい結果が欲しかったのに」と悔やんでいるうち、それ行け、ワッショイの反撃で逆転。
プロ入り初登板初勝利が転がり込みそうになってきたのだった。
タカマサが三者凡退にピシャリ。
2セーブ目をマーク。
ということは早川の初勝利も決まった。
「悪運が強いのかな。
うれしい。
いまはなにを言われてもうれしい」。
これ以上崩しようがないほど顔をほころばせて喜んでいた。
早川は前日八回の1イニングで、この日は同じ八回の3分の2イニング、シメて32球で2勝目を挙げた。
「八回の大洋の攻撃が始まる直前に投げ始めただけ。
だからウオームアップは10球ぐらいでした」と早川。
「僕がもう2勝も挙げるなんてツキですね。
実を言うと、五回ごろマッサージを受け、もうアガっていたんです」と格好をくずしていった。

みんなが知りたい質問

元阪神のバッキー投手を知ってますか? 1963年 二日、中日七回戦に勝つまでは弱々しくこういっていた。
「一つでもいいから勝ち星をあげたい」いまは違う。
「ワン・モア(もう一つ)」と声にも力がこもっている。
弱気な投手から強気な投手に生まれ変わらせたその初勝利の感激をこういった。
「あんなにうれしかったことはない。
生まれたばかりの子供を初めて抱きあげたときのような気持ちだった。
そんなとき、どんなパパでも思うようにようし、もっともっとやるぞというファイトがもりもりわいてきた」こんないい方をする子ばんのうだ。
住居は西宮市浜甲子園の小さなアパート。
ここにいるときは、いっときも長女のリタちゃん(四か月)をそばからはなさない。
四日、バッキーはアパートでやはりリタちゃんを抱いていた。
「五月二十六日の大洋戦では惜しいところで完全試合をのがしてしまったけど、それより残念だったのは勝ち投手になれなかったことだ。
でもあの試合で自信のようなものができた」すぐ野球の話だ。
リタちゃんが大きな目をクリクリさせて、一気にしゃべりまくるパパを不思議そうに見あげると、ふっくらとしたリタちゃんのホオを指でちょんと突っついてやさしく笑った。
「いま調子がいいのも、リタという気分転換があるからだ。
どんなにムシャクシャしているときでも、リタの顔を見ると・・・」うっとうしい雨がアパートの小窓を打ちつづける。
「またきょうも試合は中止だ。
雨で試合が流れると、調子の持っていき方がむずかしいね」せっかくのぼり始めた調子を、雨で狂わせたくないのだろう。
うらめしそうに窓の外へ目をやった。
アメリカでも一シーズンの最高の勝ち星は1958年C級のダラスにいたときの11勝。
だから今シーズンの目標も11勝を越えることにおいている。
「でもいまは何勝するなんでいうのはちょっとはずかしい。
まずワン・モアしたら、またワン・モアを心がける。
さしあたってつぎの勝ち星は、トップ・チームの巨人からあげたいね。
王、長島はすばらしいバッターだ。
巨人に勝つためには王、長島をマークしなければダメだ。
しかしあの人たちはウイークポイントがない」だがバッキーはひそかにON砲攻略に自信を持っている。
国鉄の金田が五月二十九日、超スローボールで王、長島を牛耳ったことを知っているからだ。
バッキーはスローカーブが武器だ。
「スローカーブと速球、それにチェンジアップをまぜてタイミングをはずしてうちとるんだ」王、長島がボックスにはいったときのピッチングはもうきまっている。
「バッキーが調子をあげてきたのは大きい。
記録にあらわれた勝ち星は一つだが、実際は3勝ぐらいの価値がある。
五月五日の対中日戦、大洋を九回一死まで完全に押えたピッチングだ。
今シーズン調子がいいのはスピードが増したからだ。
大きく落ちるカーブも速球があるから効果的になるのだ。
小山につぐ投手が出てきたことはこれからの三連戦で非常に有利になる」藤本監督をすっかり喜ばせたバッキーは、午後三時雨の中を甲子園雨天練習場を出かけた。