元巨人の伊藤芳明投手を知ってますか? 1963年 伊藤のオッチャンがホームランを打ったーこれはたいへんなことである

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元巨人の伊藤芳明投手を知ってますか? 1963年 伊藤のオッチャンがホームランを打ったーこれはたいへんなことである。五回裏、先頭の伊藤が河村から右翼スタンドへホームランしたとき、巨人ベンチは「おおやったぞ」みんなびっくりして、イスからとびあがった。堀内や藤田が「やられた」「やられた」を連発している。プロ入り五年目で、初めて記録したホーマーだ。初ホーマーどころか、二百四打席目に出たホームランだ。しかも今シーズン初ヒット。去年まで四年間に長打といえば二塁打二本しか打っていない。巨人の投手は、自分たちの仲間がホームランを打つと、そのときベンチにいた連中が一人二千円出し合ってのその投手兼ホームラン打者を表彰することにしている。「やられた」とわめいたいのはこのため。ほかに五人いらから一万円いただきました。ワイフにおみやげ?いやいや、夫のへそくりです。貯金しようかな。しかしホームランというものは気持ちがいい。雲の上を走ったような気分だったね。何年もやってたら一度ぐらい味わわせてもらってもいいでしょう。ことしはまるで打てなくてね、実は心配していたんだ。本腰の調子がよくなると、副業の方はおろそかになるもので・・・。えへへ」本腰のピッチングもすばらしかった。四回までノーヒット、カーブのコントロールがよく、それにもまして低目の球がよくのびていた。今シーズン三度目の完投、二度目のシャットアウト試合だ。投げ終わったあと帽子のひさしが横を向くのがマウンドの伊藤のクセだが、この日は調子がいいのかあまり帽子も横に向かなかった。試合が終わって帰りのバスに向かう伊藤は、報道陣とファンと警備の警官にもみくちゃにされ、ダッグアウトからバスに向かうまでの約十五㍍に十分もかかった。「きょうはカーブがよかったね。初めはシャットアウトできるとは思わなかったのだが、五回藤井にポテン・ヒットを打たれてから気が楽になったよ。スピード?だんだん出てきたからな。広島が大振りしてきたからカーブがよくきいたのかな。それにしても初めはコーナーをねらったのがギリギリできまらず、困ったがね・・・」「オーイ、オッチャン。よくやったな」球場を出たとたん、ファンの人波からそんな声援が送られた。めったにこない金沢にまで伊藤のニックネームは知れ渡っている。たいしたものだ。これも伊藤流にいえば、五年もすれば全国にニックネームぐらいは知られなければ一人前といえないのだろう。城之内、北川、中村のエース級三人を使って負けた富山のアダを伊藤は一人でうった。

知らなかったので調べました。 中学時代に野球を始めて投手となり、興誠商業高校では2年生からエースとして活躍。 1952年に中央大学へ進学すると、1年の春季から東都大学リーグで登板。 1953年春季のリーグ優勝に貢献し、同年の日本選手権では決勝で立大に敗れ準優勝。 1954年秋季リーグの対東農大戦でリーグ史上4人目のノーヒットノーランを達成。 リーグ通算57試合登板、21勝13敗。 大学同期に鈴木隆、穴吹義雄がいる。卒業後は日本生命に入社し、1957年から2年連続で都市対抗に出場。 1959年に読売ジャイアンツへ入団すると、同じ新人の王貞治と同部屋になる。 オープン戦から好調で、前年度29勝を挙げて最優秀選手となった藤田元司を差し置いて、新人ながら開幕投手を務めるなど、36試合に投げ7勝9敗防御率2.98を記録する。 1960年10勝、1961年13勝と、堀本律雄・中村稔に次ぐチーム2位の勝ち星を挙げた。 特に、1961年は勝率.684で最高勝率のタイトルを獲得するとともに、防御率2.11もリーグ3位と好成績をあげ、川上哲治監督の初優勝に貢献している。 1962年は不本意な救援投手への転向によりわずか4勝に終わる。 しかし、1963年には再び先発投手に復帰して10完封を含む19勝8敗防御率1.90(リーグ2位)とチームの勝ち頭となり、2年ぶりのリーグ優勝に貢献、沢村賞のタイトルにも輝いた。 1964年は左足の肉離れから投球フォームを崩して11勝と勝ち星を減らし、翌1965年は肩の故障により2勝に終わると、同年オフに池沢義行・久保田治・島田雄二との1対3のトレードで東映フライヤーズへ移籍。 東映ではしばしば先発投手も務めたが、4シーズンでわずか5勝と不本意な成績に終わり、1969年を最後に引退した。 新人の年を含め開幕投手を3回、オールスターゲームにも3度出場している。 引退後は巨人に戻り、1970年からスカウトになり[5]1979年まで務め、1981年から2000年まで再びスカウト、1980年のみ二軍投手コーチを務めた。 威力のある重い球質の速球とドロップを得意とした。 ピッチングは力強かったが、投球フォームはコックンコックンしてリズム感に乏しかったという。 巨人に入団した当初から新人離れした風貌で、おっちゃんのニックネームで呼ばれた。 他人の悪口を決して言わず、誰からも好かれる誠実な人柄であった。 通算411試合出場 71勝63敗 防御率2.87 最高勝率:1回 (1961年) 沢村賞:1回 (1963年) オールスターゲーム出場:3回 (1961年、1963年、1964年) 背番号 21 (1959年 - 1965年) 12 (1966年 - 1969年) 73 (1980年)

#四

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この質問「元巨人の伊藤芳明投手を知ってますか? 1963年 伊藤のオッチャンがホームランを打ったーこれはたいへんなことである。五回裏、先頭の伊藤が河村から右翼スタンドへホームランしたとき、巨人ベンチは「おおやったぞ」みんなびっくりして、イスからとびあがった。堀内や藤田が「やられた」「やられた」を連発している。プロ入り五年目で、初めて記録したホーマーだ。初ホーマーどころか、二百四打席目に出たホームランだ。しかも今シーズン初ヒット。去年まで四年間に長打といえば二塁打二本しか打っていない。巨人の投手は、自分たちの仲間がホームランを打つと、そのときベンチにいた連中が一人二千円出し合ってのその投手兼ホームラン打者を表彰することにしている。「やられた」とわめいたいのはこのため。ほかに五人いらから一万円いただきました。ワイフにおみやげ?いやいや、夫のへそくりです。貯金しようかな。しかしホームランというものは気持ちがいい。雲の上を走ったような気分だったね。何年もやってたら一度ぐらい味わわせてもらってもいいでしょう。ことしはまるで打てなくてね、実は心配していたんだ。本腰の調子がよくなると、副業の方はおろそかになるもので・・・。えへへ」本腰のピッチングもすばらしかった。四回までノーヒット、カーブのコントロールがよく、それにもまして低目の球がよくのびていた。今シーズン三度目の完投、二度目のシャットアウト試合だ。投げ終わったあと帽子のひさしが横を向くのがマウンドの伊藤のクセだが、この日は調子がいいのかあまり帽子も横に向かなかった。試合が終わって帰りのバスに向かう伊藤は、報道陣とファンと警備の警官にもみくちゃにされ、ダッグアウトからバスに向かうまでの約十五㍍に十分もかかった。「きょうはカーブがよかったね。初めはシャットアウトできるとは思わなかったのだが、五回藤井にポテン・ヒットを打たれてから気が楽になったよ。スピード?だんだん出てきたからな。広島が大振りしてきたからカーブがよくきいたのかな。それにしても初めはコーナーをねらったのがギリギリできまらず、困ったがね・・・」「オーイ、オッチャン。よくやったな」球場を出たとたん、ファンの人波からそんな声援が送られた。めったにこない金沢にまで伊藤のニックネームは知れ渡っている。たいしたものだ。これも伊藤流にいえば、五年もすれば全国にニックネームぐらいは知られなければ一人前といえないのだろう。城之内、北川、中村のエース級三人を使って負けた富山のアダを伊藤は一人でうった。」に答えてみる

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元阪神の三宅秀史選手を知ってますか? 1963年 八回阪神が6-1とリードして、なお二死二塁、代打三宅(秀)が出たとき三塁スタンドの女学生の群れがキャーキャー声をあげた。
三宅(秀)がちらっと見あげると約七か月ぶりの打席に立った。
外角低目のストライクを見のがしてからつづけて3球内角のボールをこわそうによけた。
五球目、また内角の直球。
瞬間オープン・スタンスに切りかえて右前へライナーではじきとばした。
「いやあ、恥しいな。
三振するつもりだったのがヒットになるんだから」ひとりでテレたが、左目のことにはふれたがらない。
視力についてはこんな答え方をした。
「毎日二、三十本打っているが、まだほんとうのカンがつかめない。
とくに外角の見きわめはむずかしい。
きょうの第一球だっててっきりボールだと思っていた。
まだ練習がたりない」問題は視力でなく練習量というわけ。
「目のことより足、腰を慣らすことの方が大事なんだ。
だから当分二軍といっしょにやる。
一軍では遠慮せんといかんし、いまのオレは忘れられた存在だからな」さびしそうな言葉をうしろから梶岡コーチが大声で打ち消した。
「ウエスタンでどんどん出てもらう。
はじめは代打。
半月もしたらスタメンで二、三回。
一か月後には四番を打ってもらって・・・」三宅(秀)は笑った。
「オレもヒットを打った日ぐらいでかいことをいうかな。
すぐホームランだって打てるぜ」

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元南海の渡会純男選手を知ってますか? 1963年 意外なことが重なって思いがけないヒーローが生まれた。
その第一は皆川のホームラン。
投手ではバッティングのいい皆川だが、最近十試合で8三振。
「どうせ打てないんならはなばなしく三振してやろうと第一打席からブリブリ振りまわしていたら、運よくジャスト・ミートしたんだ」第一打席は全部力いっぱいのから振りで三振。
ホームランも二度大げさにから振りしてからだった。
第二の意外は、それまで西鉄を四安打に押えていた皆川が九回二死2-0からロイに打たれたホームラン。
「勝負を急ぐな。
タイミングをはずせ」ベンチから鶴岡監督が大声を出し、野村が腰を浮かしたはずすつもりのボールだった。
「左足を踏み出した瞬間、大きくインステップしすぎて足首が内側にキュッとまがってしまった。
アッと足に気をとられたらスナップがおかしくなって棒球になってしまった。
あんなこと一年に一度くらしかない」めったにない左足の奇妙な動きがなかったらロイのホームランは出なかっただろう。
そのころ渡会はベンチの一番うしろでのんびり観戦中だった。
九回裏若生が出てきたとき、まるで関係ない顔をしていた渡会に声をかけたのが岡本だった。
「出る用意をしておいた方がいいぞ」下手投げ投手対左打者。
島原を使ってもう左は渡会だけだった。
二年前まではコーチと選手の間がらだった岡本と渡会。
岡本のカンは当たり、渡会は岡本の言葉を監督命令のように聞いた。
「岡本さんにいわれてそうかなあと思って、バットを振って待っていた。
打った球はカーブかスライダーかわからんな。
今シーズン代打で三打席目。
いままでは安打と四球、失敗はなかったからね。
きょうもうまくいくとは思っていたけど・・・」杉浦が名づけ親でナインやミッキー・ルーニーと呼んでいる。
戦前からアメリカの青春映画の主役で有名な童顔の俳優だ。
小さな顔に丸い目をキョロキョロ動かしてテれる渡会は、最後までベンチに残って道具をかたづけていた。

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元太平洋の藤井信行選手を知ってますか? 1974年 実は最近の稲尾監督、故障者続出にネを上げながらも、一方では一つの楽しみを味わっていたようだ。
「故障者が多くてどうしてようもないんだが、逆に若い選手からみれば、飛び出すチャンスなんだ。
それをどうつかんでいくか・・・」伊原、米山、鈴木、楠城、若菜、真弓、川野、吉村・・・つぎつぎチャンスを与えてきた。
そのチャンスという釣り糸に、ガップリ食いついてきたのが藤井信。
ビュフォードの故障と東田の不振であいた左翼の穴。
ある日、青木専務は担当コーチに質問した。
いまの東田と藤井信を比べてバッティングはどちらが上か、と。
答えは「同じようなものです」だった。
「それなら藤井信を使ってみたら」この提案が藤井信を日の当たるところへ引き出た。
九日の近鉄ダブルヘッダー第二試合。
思い切って先発メンバー(左翼、六番)に入れたら、これが第一、第二打席の連続ホームラン。
チームの連敗は5で食いとめることが出来た。
そしてトップバッターに起用した十二日の日本ハム戦でサヨナラヒット。
翌十三日には逆転の二塁打と、貴重な安打を飛ばした。
スタメン出場7試合の成績は24打数8安打、本塁打2、二塁打2)4得点、8打点、打率・333。
堂々たるものだ。
「あいつはまじめな男。
野球に取り組む姿勢がいい。
十八日(日本ハム戦)だって、ヒットはなかったが、四死球で二度出塁しているからねえ。
この調子を続けてほしいなあ」と期待するのは鬼頭ヘッドコーチ。
もちろん、本人もうまくつかみ取ったレギュラーポジションを守り抜こうと必死。
山口県の徳山商からノンプロの協和酸酵で四番を打ち、四十五年ドラフト六位でロッテに入団。
当時二軍監督だった大沢氏は、そのパンチ力に目をつけ、その後、四十七年、ロッテの監督になるや、藤井信に一軍キップを与えようとした。
ところが、鹿児島キャンプで打球を追って選手同士の衝突。
左ヒザを骨折、せっかくのチャンスをつかみそこねた。
太平洋にトレードされた昨年も、外野フェンスにぶつかって、同じ左ヒザを痛めた。
湿布と電気治療を欠かさず、注射で薬を注入している。
しかし、藤井信は、ヒザのハンディに負けていない。
「ロッテの時にもチャンスがあったのに、自分でつかみきれなかった。
やっぱりぼくらは試合に出て打っていくらですからねえ」過去に苦い経験を持っているだけに、チャンスの意味を十分に知っている。
四十七年に父親が亡くなって、徳山市内に住む母親と妹への責任が重くなった。
母親のミサ子さんは「もう野球をやめて帰ってこい」とやかましく言ってきていたが、ここへきて、やっと「いや、野球は続ける」と胸を張って答えることが出来るようになった。
「代打ではタマを見ている余裕がない。
その点、スタメンから出場出来るとタマがよく見えますから、でも、いまは思いきって打っていくだけです」タイミングとグリップの構えに注意しているという藤井信に、田中久コーチも打撃の進歩を認める。
「左肩がすぐ開くので外角が打てなかったが、最近はよくなってきた」二十日の南海戦からは、藤井信に続けとばかり若菜らの若手がベンチ入りするー。