マツダ新型デミオ1.5 XD ツーリング Lパッケージ ディーゼルターボ 4WDの評判・スペック

マツダデミオ 1.5 XD ツーリング Lパッケージ ディーゼルターボ 4WDの燃費・価格・馬力・歴代モデルなど基本スペックを全て調べることができます😏


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マツダ デミオ 1.5 XD ツーリング Lパッケージ ディーゼルターボ 4WD

デミオのフロント外観(14年(H26)9月、FMC時のフロント。仕様はグレードにより異なります)

デミオのリア外観(14年(H26)9月、FMC時のリア。仕様はグレードにより異なります)

デミオの内装・インパネ(14年(H26)9月、FMC時のリア。仕様はグレードにより異なります)

メーカー マツダ
車種 デミオ
グレード 1.5 XD ツーリング Lパッケージ ディーゼルターボ 4WD
販売期間 2017年12月から 販売中
価格 2,095,000円
エンジン エンジン: 直列4気筒DOHC
排気量: 1498cc
型式: LDA-DJ5AS
馬力: 105ps
トルク: 250(25.5)/2500
ミッション: 6AT バッテリー: 標 準:Q85(※例外有) 寒冷地:Q85(※例外有)
タイヤ 前輪: 185/60R16
後輪: 185/60R16
ホイールサイズ: (F)5.5Jx15+40/(R)5.5Jx15+40
駆動: 4WD
最小回転: 4.9m
タイヤサイズ
燃費 燃費(JC08):
燃費(10•15):
燃料: 軽油
実燃費: 11.58から 19.72
ボディサイズ 高さ: 1550 車幅: 1695 全長: 4060
乗車定員 5人
評価・レビュー 外観: 4.43点
内観: 4.34点
スペック: 4.39点
エンジン: 4.34点
乗り心地: 4.12点
燃費: 4.55点
価格: 4.09点
中古車 台
買取価格相場
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マツダデミオとは

マツダが誇るコンパクトカー「デミオ」は、1996年に初代モデルが登場しました。愛され続けるこのモデルは、現在も多くのファンに支持されています。価格帯は比較的リーズナブルで、幅広い層に人気があります。デミオは、コンパクトながらも広い室内空間が特徴で、乗り心地の良さと扱いやすさが魅力です。最新モデルでは、スタイリッシュな外観デザインや先進的な安全装備も充実しています。 デミオの主力グレードは、1.5リットルの直列4気筒エンジンを搭載したモデルで、スポーティーな走りを楽しむことができます。このエンジンは、パワフルながらも燃費性能も良く、街乗りからツーリングまで幅広い用途に対応しています。また、車体サイズもコンパクトながらしっかりとした走行安定性を持ち、運転の楽しさを存分に味わえます。 デミオは、都会の街中での使い勝手の良さから、若者を中心に幅広い世代から支持を受けています。コンパクトなボディサイズながらも荷物の収納スペースは十分であり、日常の買い物からアウトドアアクティビティまで幅広いシーンで活躍します。また、安全面にも配慮がされており、街中での走行だけでなく高速道路などでも安心して運転できる点も魅力の一つです。 デミオのタイヤサイズは、15インチや16インチなど、幅広いバリエーションが揃っており、ユーザーの好みや走行性能に合わせた選択が可能です。スポーティーな外観に加えて、ハンドリングや走行安定性にもこだわりが感じられるデミオは、街乗りからワインディングロードまで幅広いドライビングシーンで楽しむことができます。 デミオの人気の秘密は、その使いやすさやコンパクトながらも広い室内空間、走行性能など、バランスの良さにあります。マツダブランドの信頼性や安全性も魅力の一つであり、長年にわたり愛され続ける名車となっています。デミオは、都会での移動からレジャーやドライブまで幅広く活躍する、多くのユーザーに支持される一台です。

より詳しいスペックやオプションの情報を見ることができます。

詳細項目 スペック
型式LDA-DJ5AS
最小回転半径4.9m
駆動方式4WD
全長×全幅×全高4.06m×1.7m×1.55m
ドア数5
ホイールベース2.57m
ミッション6AT
前トレッド/後トレッド1.5m/1.48m
AI-SHIFT-
室内(全長×全幅×全高)1.81m×1.45m×1.21m
4WS-
車両重量1220kg
シート列数2
最大積載量-kg
乗車定員5名
車両総重量-kg
ミッション位置フロア
最低地上高0.15m
マニュアルモード◯
標準色ダイナミックブルーマイカ、ジェットブラックマイカ、チタニウムフラッシュマイカ、ディープクリスタルブルーマイカ、ディープクリムゾンマイカ、エターナルブルーマイカ、ソニックシルバーメタリック
オプション色スノーフレイクホワイトパールマイカ、マシーングレープレミアムメタリック、ソウルレッドクリスタルメタリック
掲載コメント-
エンジン型式S5-DPTS
環境対策エンジンH17年基準 ☆☆☆☆
種類直列4気筒DOHC
使用燃料軽油
過給器ターボ
燃料タンク容量44リットル
可変気筒装置-
燃費(JC08モード)22.8km/L
総排気量1498cc
燃費(WLTCモード) -
燃費基準達成-
最高出力105ps
最大トルク/回転数n・m(kg・m)/rpm250(25.5)/2500
福祉車両-
大型ガラスルーフ-
片側電動スライドドア-
サンルーフ-
両側電動スライドドア-
ルーフレール-
ドアイージークローザー-
Tバールーフ-
電動バックドア-
ルーフ系装備-
ディスチャージドランプ-
タルガトップ-
フロントフォグランプ◯
ハードトップ-
リアフォグランプ◯
ソフトトップ-
ヘッドライトウォッシャー◯
キャンバストップ-
フロントスポイラー-
メタルトップ-
リアスポイラー-
マグネシウムホイール-
ローダウン-
アルミホイール◯
UVカットガラス◯
片側スライドドア-
プライバシーガラス◯
両側スライドドア-
寒冷地仕様-
ステアリング位置右
ステアリングステアリングギア方式パワーアシスト付ラック&ピニオン式
ステアリングパワーステアリング◯
ステアリングVGS/VGRS-
サスペンション形式前ストラット式
サスペンション形式後トーションビーム式
高性能サスペンション-
タイヤサイズ前185/60R16
タイヤサイズ後185/60R16
ブレーキ形式前Vディスク式
ブレーキ形式後ドラム式
ソナー◯
駐車支援システム◯
センターデフロック◯
横滑り防止装置△
トラクションコントロール◯
フロントカメラ-
LSD(リミテッドスリップデフ)◯
サイドカメラ◯
ダウンヒルアシストコントロール-
バックカメラ◯
AYC(アクティブ・ヨー・コントロール)△
頸部衝撃緩和ヘッドレスト-
SH-4WD△
ABS-
ISOFIX対応チャイルドシート固定バー△
ブレーキアシスト-
ビルドインチャイルド◯
アイドリングストップシステム-
バケットシートEBD付きABS(◯)
ランフラットタイヤ◯
後退時連動式ドアミラー◯
エアサスペンション-
レインセンサー◯
ブレーキ系装備-
インテリジェントAFS-
衝突軽減装置-
盗難防止装置-
ナイトビジョン◯
セキュリティアラーム-
レーンアシスト△
ロードサービス◯
車間距離自動制御システム◯
パワーウィンドウ-
オットマン機構◯
フルフラットシート-
チップアップシート△
本革シート
電動サードシート◯
フロントベンチシート-
床下ラゲージボックス-
シートリフター-
エンジンスタートボタン-
シートポジションメモリー機能分割可倒
キーレスエントリー-
運転席パワーシート-
ETC◯
フロント両席パワーシート-

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マツダ デミオの知っておきたい情報

マツダとは?
デミオとは?

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マツダデミオの新車情報

マツダデミオの最新情報まとめ

マツダ・デミオ

マツダ・デミオ

デミオ(DEMIO)は、2019年までマツダが製造・販売していたコンパクトカーである。北米ではサブコンパクトカーに、欧州ではBセグメントに車格がそれぞれ分類されている。

2代目以降の日本国外向けの車名はMazda2(マツダ・ツー)であったが、日本市場においても2019年9月12日より発売される4代目の一部改良モデルから、日本国内向け専用のペットネームを廃止し、車名を日本国外向けと同じく「MAZDA2」に統一している。

本項では、日本国内で「デミオ」のペットネームで販売されていた1996年から2019年9月までの状況について記す。

1990年代当時のマツダは、いわゆる「クロノスの悲劇」で経営危機に陥っていた。

この危機的状況を立て直すための量販車種として、当時のミニバンブームへ追随する形で既存のコンポーネントを活用し、短期間で開発・市場投入されたのがこの初代「デミオ」である。全長をコンパクトカーの範疇に留めながら、2列座席で荷室を広く採ったシンプルな小型ワゴンである。ミニバンブームの渦中で、機械式駐車場(全高1,550mmまで)に入れない高さのモデルが続出して実用上問題になっていたことから、車高は機械式駐車場に入るぎりぎりに設定された。シートはフルフラット化が可能で、荷室拡大時には同車のクラスを超えた収容力があり、コンパクトカーの中でもスペースと実用性の確保を最大限追求することが設計の主軸となっている。

構造・スタイルとも機能的な「道具」に徹した、一種素っ気ないくらいの実直さがバブル崩壊後の世相にマッチし、直接競合するクラスの大衆車に限らず上級車や軽自動車からもユーザーが移行するなど、市場における幅広い層の支持を得た。自動車ジャーナリストにも好意的に受け止められ、日本カー・オブ・ザ・イヤー特別賞、およびRJCカー・オブ・ザ・イヤーを受賞している。マツダはこの初代デミオのヒットによって経営危機を辛くも脱し、デミオは「マツダの救世主」「(1990年代における)マツダのカンフル剤」「神風」とも評された。

短期間、低コストで開発されたため、ベースにはフォード・フェスティバ、およびオートザム・レビューのプラットフォームの系統である既存形のマツダ・DWプラットフォームを使用した。なお当初はレビューの後継車種として企画開発されていた。原設計は極めて古いものであったものの、操縦安定性は念入りにチューニングとテストが繰り返されており、結果としてレスポンスの良いハンドリングを実現している。エンジンはレビューおよび2代目フォード・フェスティバ同様、1,300ccSOHC16バルブエンジンと1,500ccSOHC16バルブエンジンを搭載する。ただし、燃料供給は電子制御キャブレターから、EGI(電子制御燃料噴射装置)へ改良されており、1,300ccはネット83馬力、1,500ccはネット100馬力に向上していた。駆動方式は前輪駆動(FF)のみで、トランスミッションは、5速MTと、1.5L車に電子制御式4速AT、1.3L車は当初3速ATの設定で、これらもフェスティバ、レビューと同様である。1.5L車は「GL」から始まる2グレード、1.3L車は「L」から始まる4グレードで発表され、全てのグレードでMTとATが選べた(計12車種)。

当初、バックドアにはキーシリンダーやアウタードアハンドルがなく、開けるためには運転席脇のレバーを操作するしかなかった。これは、販売価格を抑えるため大半のグレードに集中ドアロックが設定されなかったことから、多くの他車種と同様、バックドアのロック忘れを防ぐためにこのような設計となっていた。のちにキーシリンダー付きの押しボタン式オープナーが装備され、車外からバックドアを開けられる変更となり、運転席脇のレバーは廃止された。

車体形状は「自由形ワゴン」と称する「小型ステーションワゴン」で、販売当初は「新ジャンルワゴン」としていた。「小さく見えて、大きく乗れる デミオ」や、「SMALL & BIG」のキャッチコピーも付けられていた。また、自動車検査証に記載される車体形状は「ステーションワゴン」となっている(後述の2代目についても同様)。通常、マーチ等のコンパクトなハッチバック車の登録は「箱型」であり、このことからも、荷室の収容力を強く意識したモデルであることがわかる。

旧オートラマを含むフォード店向けには「フェスティバ・ミニワゴン」(略称フェスティバMW)の名称でOEM供給された。

なお、本モデルは海外で(オセアニア向け4代目)として販売されていた。詳しくはマツダ・オートザムレビューを参照されたい。
初代の「広く実用的なコンパクトカー」としてのコンセプトを継承しながらも、初代からエンジン・プラットフォームを一新し、日本国外での市場競争力を確保した。

初代フェスティバ以来の旧小型車用プラットフォームの使用をやめ、17年ぶりにフォードと共同開発した新世代小型車用プラットフォームである、マツダ・DYプラットフォームを使用している。当代と次代においてフォード・フィエスタとプラットフォームが共通化された。

エンジンは先代と同じく1,300ccと1,500ccの2種類だが、いずれも新開発の「MZR」系エンジンに一新されている。可変バルブタイミング仕様DOHC・後方排気レイアウトを採用し、エンジン特性改善や燃費・環境対策を図っている。

駆動方式は前輪駆動のほか、日産自動車より供給を受ける、e-4WD方式の四輪駆動が途中から設定された。ボディは先代の機能主義を継承しながら、欧州での必須用件となる空力の改善を優先して設計されている。スタイリングはマツダが統一戦略として打ち出したスポーティなものとされ、フロントグリル、ボンネット形状などのモチーフは上位クラスの同車との共通性を持たせている。

アウタードアハンドルはフラップ式からグリップ式に、リアコンビネーションランプは縦型から横型にそれぞれ変更された。車体後部の車名エンブレムは、アテンザ、アクセラなどと同様な斜体のレタリングを用いたDemioに変更された。フェスティバ以来のキャンバストップも「Cozy」に設定された。また、装備が非常に充実している点も特徴であり、オートワイパー、オートライト、オートエアコン、ステアリングオーディオリモコンスイッチなどがあり、これらは何れもローコストをコンセプトとした初代にはなかった。グレード体系はシンプルモデルの「Casual(カジュアル)」、スタイリッシュモデルの「Cozy(コージー)」、スポーティーモデルの「SPORT(スポルト)」の3グレードとなり、「Cozy」はAT車のみの設定、「SPORT」は1.5Lのみの設定で、AT車は「アクティブマチック」となっていた。

なお、日本国外市場においては、これまでマツダ・121として販売していた車種を本モデルに統合・発展させる形とし、名称もマツダ・2 (Mazda 2)へ変更された。本モデル以降、「マツダ・デミオ = Mazda 2」として、マツダのボトムエンドを支えていく事になる。
初代・2代目の「汎用ミニバン」コンセプトから、欧州市場に軸足を移した一般的なコンパクト・ハッチバックスタイルへと路線転換した。先代はフォード主導で開発されたマツダ・DYプラットフォーム(フォード・B1プラットフォーム)を使ったが、マツダ主導で新しく開発したマツダ・DEプラットフォーム(フォード・B3プラットフォーム)を使い小型化・軽量化を図った。

競合車種が軒並みボディサイズの拡大とそれにともなう重量増加路線を取っている中、全幅こそ1,695mmとわずかに大きくなって5ナンバーサイズいっぱいになったものの、全長3,885 - 3,895mm、全高1,475mm、車両重量970 - 1,070kgと2代目に比べてやや小型軽量化された点についても話題を呼んだ。また、ミレーニア(ユーノス800)以来となる、1,300ccのミラーサイクルエンジンの搭載も発表。CVTも採用され、10・15モード燃費は23km/Lとなった。また、先代から引き続き設定されている「SPORT」は1.5Lエンジン搭載車をベースに、5速MTと新たに7速スポーツモード付きCVTのいずれかが組み合わせられ、ボディが補強され、足回りには専用チューンのサスペンションに加えてフロント大径ブレーキ(14インチ対応)、専用16インチAW/タイヤを採用する。さらにエクステリアでも差別化が計られており、フロントエアロバンパー、サイドステップ、リアスポイラー、専用グリルでスポーティさを主張している。同時にリアのナンバープレート位置がバックドア上からバンパー上に変更された。

デミオ初の3ドアと4ドアセダンが設定された。エンジンは当初1,300ccガソリン(2種類)と1,500ccガソリンの3種類が用意され、それぞれ55kW(75PS)、62kW(84PS)、76kW(103PS)を発揮する(欧州仕様車)。車体重量を2代目より約100kg削減したとしている。

2012年7月6日、デミオをベースにした電気自動車「デミオEV」のリース販売を、同年10月から開始することを発表した。計100台を自治体や法人向けに販売予定で、価格を357万7000円としている。

電池を床下に「広く薄く」配置することで、ベース車と比較して地上高を15mm上げたのみで、ベース車同等の車内空間を確保。重量配分もベース車の「前65・後35」が「前60・後40」と改善されている。電池搭載のため車体も強化されたことで剛性があがり、走行特性が良くなっている。フル充電で200km走行可能。社内計測値で「交流電力量消費率」も1kmあたり100ワットと、世界最高性能になっている。オプションで、非常電源として使える「100ボルト給電システム」を用意している。

モーターは、安川電機のレアアースを使用せず酸化鉄を利用したモーターを採用。工夫して、中間に短絡させる回路を追加し、高回転形と低回転形両方の特性を持たせたモーターにしている。

10月4日より販売開始。1号車は広島県に納入された。

2013年12月には走行距離の延長を目的に、ロータリエンジンを使用したレンジエクステンダーシステムを搭載した試作車を、報道各社向けに公開。0.33Lのシングルローターのシステムを搭載し、従来車の航続距離200kmと比較して、さらに180km伸ばしている。

2014年7月17日、防府工場での生産を開始し、概要が発表された。生産は日本の他、メキシコ、タイで行われ、年間販売台数は世界20万台、国内6万台を目標としている。

外観はデザインテーマ「魂動 -Soul of Motion」をコンパクトカーに合わせて再構築し、エネルギーの凝縮と解放による爆発的な前進感のある骨格をテーマに、大径タイヤを極限まで四隅に配置。ボディサイズは先代モデルに対して、全長が160mm延長され4,060mm、ホイールベースが80mm延長され2,570mmとそれぞれ拡大。また、全高は2WD車が25mm、4WD車が50mm高くなり、それぞれ1,500mm/1,525mmとなったが、全幅は3代目と同寸の1,695mmで5ナンバーサイズを維持した。3代目後期型から一部グレードで導入されていたLEDヘッドランプは野生動物の鋭い目に見立てたデザインの4灯式となり、シグネチャーウィングは端正ながら生き生きとした表情と生命感あふれる立体的な造形となる。また、3代目までリア左側に装備されていた「MAZDA」ロゴエンブレムがなくなり、車名エンブレムは「Demio」から「DEMIO」に変更したうえで、リア右側からリア左側に移動した。「SKYACTIV TECHNOLOGY」エンブレムは3代目から継続して装着されているが、ディーゼル車の「XD」系は赤字のDを右側に配した「SKYACTIV-D」装着車専用エンブレムを装着している。

インテリアは、フロントタイヤを3代目よりも80mm前方に配置することでドライバーが自然に足を伸ばした位置にペダルがあるレイアウトを実現し、アクセルペダルにオルガンペダルを採用。また、最適なドライビングポジションをとれるように、シートスライド量を260mm確保するとともに、ステアリングは上下45mm・前後50mmのチルト&テレスコピック調節機能を備えた。併せて、フロントピラーを3代目よりも80mm後退することでワイドな前方視界を確保した。コックピットは安全性を最優先し、前席空間を運転に直接関係する「走るために必要な情報」を司るゾーンとそれ以外の「コミュニケーション情報」を司るゾーンに大別して表示系や操作デバイスを配置した「Heads-up Cockpit(ヘッズ-アップ・コックピット)」コンセプトを採用し、3代目アクセラで採用したカー・コネクティビティ・システム「MAZDA CONNECT(マツダコネクト)」も採用した。マツダコネクトを採用するため、2DINサイズのナビゲーションは装着不可となるが、4代目デミオでは一部グレードにディーラーオプションのJVCケンウッド製ナビゲーション(マツダスマートナビゲーション)を装着するためのオーディオレス仕様車が設定される。内装はサテンクローム、光沢カラーパネル、カーボン調シボ、レザー、ステッチが採用されたほか、インテリアカラーはインパネ・コンソール・ドアアームレストなど、複数の色と素材を組み合わせた4種類を設定した。

エンジンはガソリンエンジンに加え、新開発のディーゼルエンジンが設定された。ガソリンエンジンは先代モデルの途中から搭載された「P3-VPS」型1.3L直噴ガソリンエンジン「SKYACTIV-G 1.3」を改良して1.3L車全グレードに搭載。最高出力は、8PS(6kW)向上し、92PS(68kW)、最大トルクは0.9kgf・m(9N・m)アップの12.3kgf・m(121N・m)を発生する。なお、先代モデルに搭載していたZJ-VE型、ZJ-VEM型1.3Lガソリンエンジン、ZY-VE型1.5Lガソリンエンジンは廃止された。また、2018年8月の商品改良実施時に、1.5Lを排気量を拡大した「P5-VPS」型に換装した。(詳細は、下記年表の「2018年8月30日」を参照)

2015年9月に追加された「15MB」には「P5-VPS」型1.5L直噴ガソリンエンジン「SKYACTIV-G 1.5」を搭載した。(詳細は、下記年表の「2015年9月24日」を参照)新搭載となるディーゼルエンジンは、「S5-DPTS」型1.5Lディーゼルターボ「SKYACTIV-D 1.5」を採用。AT車は2.5Lガソリンエンジン車に匹敵する最大トルク250N・m(MT車の最大トルクは220N・m)の高トルクを発揮し、MT車は、ハイブリッド車を除く登録車では最高レベルとなるJC08モード燃費30.0km/Lの優れた低燃費を実現した。なお、「XD Touring」・「XD Touring L Package」のAT車にメーカーオプションとなる減速エネルギー回生システム「i-ELOOP(アイ・イーループ)」を搭載した場合、エンジン形式名は「S5-DPTR」型となる。最高出力・最大トルクともに「S5-DPTS」型と共通だが、JC08モード燃費が0.2km/l向上する。

トランスミッションは刷新され、AT車は「SKYACTIV-DRIVE」を採用して6速に多段化。MT車は「SKYACTIV-MT」を採用し、1.3Lガソリン車(「13C」を除く)は5速MT、ディーゼル車では6速MTとなる。3代目で設定されていたCVTは本代では廃止された。4WD車はCX-5に採用しているアクティブトルクコントロールカップリング方式の4WDシステムを採用し、優れた走破性・車両安定性を実現するとともに、3代目のe-4WDに比べて20%軽量化されたことで燃費も向上された。さらに、軽量高性能シャシー「SKYACTIV-CHASSIS」とコンパクトカーに合わせて改良された軽量高剛性ボディ「SKYACTIV-BODY」も導入された。先進の安全技術「i-ACTIVSENSE(アイ・アクティブセンス)」も導入され、スマート・シティ・ブレーキ・サポート(SCBS)を「13C」を除く全車に標準装備し、ブラインド・スポット・モニタリング(BSM)とバックで後退する際に接近してくる車両を検知してドライバーに知らせるリア・クロス・トラフィックアラート(RCTA)をディーゼル車にセットオプション設定した。

マツダで販売されてきた教習車(マツダ教習車)は2004年から3代連続でアクセラセダンベースのものとなっていたが、2019年4月24日に、PDI(納車前検査)を通過したMAZDA2(デミオ)のセダン(海外専売車種)のタイ仕様車(右ハンドル車)をベースとした車両をマツダE&Tの手で教習車仕様として架装・改装したモデルに移行し、同年5月27日から販売することを発表した。ベース車種の変更について、マツダでは「教習生が初めて乗るクルマとしての取り回しの良さを考えたときに、(アクセラのような3ナンバーサイズではなく)5ナンバーサイズがベストと判断した」と説明している。また、日本で導入されているハッチバックモデルではなくセダンタイプを導入した理由については、国が定める教習車の規定が「全長4.4m(4,400mm)以上」と定められているためであるという(先述した通りベース車両の全長は4,320mmと4,400mmに満たないため、オーバーライダーの機能を併せ持った「仮免許練習中」標識用プレートホルダーを前後のバンパーに架装・装着し、車両の全長を4,400mm以上に達するように延長させる必要がある)。

パワートレインは教習車で初めて「SKYACTIV TECHNOLOGY」が導入され、「SKYACTIV-G 1.5」(P5-VPS型)に、6速MT「SKYACTIV-MT」又は6速AT「SKYACTIV-DRIVE」が組合わせられ、「G-ベクタリングコントロール」も装備される。

教習車特有の装備も多数備えており、指導員席シートリフター、指導員用のモニターや防眩インナーミラーが採用され、指導員用アウターミラーは左右アウターミラー間寸法からはみ出ないように設計された。また、シートに振動吸収ウレタンを採用。また、タイヤ・ホイールは15インチ(185/65R15)とし、リアバンパープロテクターを装備。クラッチディスクは耐摩耗性を高めた大径タイプを、ヘッドランプやフットランプはLEDが採用された。

2011年10月、マツダは住友商事との合弁でメキシコ工場を起工し、円高を回避して中南米向けに輸出を行う拠点作りに着手した。しかし2012年3月にメイン市場のブラジルが、経済的事由によりメキシコからの輸入車を関税無しから高関税へと切り替え、さらに輸出額の制限もすることで合意。2013年から輸出予定であったマツダはブラジル市場から締め出される格好になり、稼働率の大幅な低下の危機に晒された。

そこでサイオンブランドのラインナップを強化したがっていたトヨタとの利害が一致し、2012年11月9日にデミオをベースにしたトヨタ自動車北米向け小型車を、2015年夏より年間5万台程度OEM生産することに合意し、この事態に対処した。

2015年4月のニューヨーク国際オートショーで、MAZDA2(デミオ)セダンをベースにしたサイオン・iAを初公開し、9月から販売を開始した。なお、この提携の関係により北米向けMAZDA2が廃止されている。

2016年にサイオンブランドは廃止されたが、iAはその後、トヨタ・ヤリスiAを経てトヨタ・ヤリスセダンとして販売が継続され、更に2019年秋以降より北米向けヤリスにMAZDA2ベースのハッチバックモデルが追加された(以後、北米向けヤリスはMAZDA2ベースのみとなる)。2017年のヤリスiAの北米販売台数は36000台で、マツダ・CX-3の16000台を倍以上上回った。なお、北米向けにヤリス等として供給される車両はガソリンエンジンのみの設定である。

スペイン語で「私の(もの)」を意味する「de Mio」デミオ(英語では「of mine」に相当)から取られた造語である。「自分流の工夫をして楽しむ車」という気持ちをこめて命名された。


マツダ

マツダ

マツダ株式会社()は、広島県に本拠を置く日本の自動車メーカーである。

自動車及び同部品の製造・販売を事業としている自動車メーカーである。本社所在地は広島県安芸郡府中町新地3-1。2019年度の世界販売台数は142万台。

ロータリーエンジンを搭載した自動車を量産していたほか、ロードスターは「2人乗り小型オープンスポーツカー」の生産累計世界一としてギネス世界記録の認定を受けている。1991年には日本メーカーとしては初のル・マン24時間レースでの総合優勝を果たした。2000年代以降は「Zoom-Zoom」のキャッチフレーズの下、走行性能とデザインを特色とした車作りに特化する戦略を進めている。今後は、顧客との間に強い絆をもった「プレミアムなブランド」を目指すとしている。

1979年以来フォードとの提携関係が長く、1996年5月には同社の傘下に入りプラットフォームや生産施設などの共有化が進められたが、リーマン・ショック以降は今度はフォードの経営が悪化したこともあり、2015年9月に完全にグループから独立した。

2015年5月にはトヨタ自動車と中長期的な提携関係を結ぶことを発表し、2017年8月には業務資本提携を結ぶことで合意。相互に500億円分ずつ株式を取得し、トヨタがマツダの第2位の大株主となった。THS-Ⅱの供給や、EV開発会社と北米工場の共同設立など、両社は急速に距離を縮めている。

2018年5月には日本国内生産累計5000万台を達成した。国内メーカーではトヨタ、日産に次ぐ3社目の達成である。

創業は1920年、コルクを生産する「東洋コルク工業株式会社」として誕生。1927年以来、「東洋工業株式会社」が正式社名であったが、1984年にブランド名に合わせて「マツダ株式会社」に改称した。英語表記は「MAZDA」。コーポレートマークの「mazda」は1975年から、「M」を模った現在のエンブレム(ブランドシンボル)は1997年から使用されている。現在の社名は、事実上の創業者である松田重次郎の姓と、叡智・理性・調和の神を意味するゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー(Ahura Mazdā)にちなみ、自動車産業の光明となるよう願ってつけられた。

1920年(大正9年)1月30日、広島市中島新町10番地にマツダの源流となる東洋コルク工業株式会社が設立された。清谷商会という1890年(明治23年)創業のコルクの製造・販売を手がける企業の経営が悪化したため、主な融資元であった広島貯蓄銀行が中心となり、融資の回収と事業の存続を図る方策として、それまでの個人経営から会社組織に改める形で設立された会社だった。設立にあたっては当時の広島の主要な財界人が参画し、初代社長には互選によって広島貯蓄銀行頭取の海塚新八が就任した。しかし海塚が体調不良により辞任を申し出たため、翌1921年(大正10年)3月、取締役の中で唯一経営に専念できる松田重次郎が社長に就任。松田重次郎はコルク栓を製造する際に出る屑コルクに目をつけ、広島高等工業学校との研究で加熱製法による圧搾コルク板を商品化し、廃材から付加価値の高いコルク製品の製造に成功する。海軍から大量の受注を得て業績は回復し、東京や大阪にも出張所を設けて経営を積極的に展開した。

しかし東京に出張所を設けていたことが仇となり、1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって多くの売掛金が回収不能となって経営は大きな打撃を受けた。かねてから松田重次郎と親交のあった日窒コンツェルン総帥の野口遵からの融資で倒産を回避したが、不況の深刻化を受けて従業員の半分を解雇する事態にまで追い込まれ、さらに1925年(大正14年)12月の深夜の火災によりコルク工場が全焼してしまう。
こうした事態を受け、松田重次郎は過当競争となっていたコルク事業から自身が得意とする機械事業への進出を決意。知遇を得ていた呉海軍工廠長の伍堂卓雄に支援を依頼し、日本製鋼所を通す形で注文を取り付け、資金面では野口が保証人となり、芸備銀行から資金を調達した。1927年(昭和2年)には社名を東洋工業株式会社に改称した。

1928年(昭和3年)初頭から、日本製鋼所や宇品造船所などの下請工場として海軍関係の兵器や機械、部品の製造を始めた東洋工業は、同年10月に広海軍工廠の指定工場に、翌1929年(昭和4年)1月に呉海軍工廠および佐世保海軍工廠の指定工場となり、航空機のエンジンやプロペラ、軍艦の精密機械などを受注。同年8月には海軍省購買名簿に登録され、従来の第2次下請けの立場から各海軍工廠の第1次下請け工場の地位を確立した。

前述の債務保証を発端に、日本窒素肥料(現・チッソ)の経営参加が開始され、1931年(昭和6年)には野口自身も取締役に就任したことで、東洋工業の4人の取締役の内、松田重次郎を除く3人が日本窒素肥料系で占められた。第二次世界大戦の頃まで東洋工業の経営はおおむねこの陣容で進められていくことになる。

東洋工業は軍工廠の下請けという形で機械事業へと進出したが、軍からの注文は少量多品種な上に繁閑差が大きいため、量産によるコスト低減を図ることが難しいという悩みがあった。独自の製品を持ちたいと考えた松田重次郎は、最終的な目標を自動車製造に置きながらもまずはオートバイから手をつけることにし、1929年(昭和4年)から試作を始め、1930年(昭和5年)に30台と少数ながら市販した。

1930年(昭和5年)には三輪トラックの開発に着手。オートバイから一足飛びに四輪自動車製造に向かうのではなく、まずは当時人気を呼んでいた三輪トラックで実績を積もうという狙いがあった。また、広島市吉島町の工場が手狭になっていたため、現在の本社所在地である広島県安芸郡府中村(現・府中町)の土地を取得。松田重次郎の長男の松田恒次(後に3代目社長)がレイアウトを担当し、三輪トラックを中心に設計された新工場が完成した。コルク製品と機械工業が事業の中心だった東洋工業にとって三輪トラック市場への進出は未知数だったため、野口の斡旋により、東洋工業が生産する三輪トラックを三菱商事の一手販売とする契約を結んだ。

1931年(昭和6年)10月、府中の新工場で三輪トラックのマツダ号DA型の生産を開始。軍需景気で需要が増加していたところに、それまでの三輪トラックにはない後退ギアや、カーブをスムーズに曲がれるよう後輪にディファレンシャルギアを装備したDA型は、三菱商事の全国的な販売網も相まって好評を博した。改良型のDB型を発売した翌1932年(昭和7年)には国内シェア25%を獲得。売上は急拡大を遂げ、マツダ号は海外へも輸出された。
1935年(昭和10年)10月、朝鮮半島で大規模な水力発電所をいくつも建設していた野口からの依頼を受けて開発した削岩機を初納入し、またこの年には1929年(昭和4年)から社内向けに製造していた工作機械の外販も始めた。1936年(昭和11年)には三菱商事との販売契約を解消し、オート三輪は東洋工業の直売制に移行した。

この頃には三輪トラックの次なる商品として、四輪自動車の検討を始めた。1936年(昭和11年)の重役会で小型四輪自動車の製造が決議され、イギリスのオースチン・7を購入して研究を開始。さらにドイツ車のオペル37年式やイギリスのMG37年式を購入し、最新のプレス機をはじめとする各種設備もアメリカから買い入れた。1940年(昭和15年)には小型四輪自動車の試作車を完成させ、生産体制も整備されつつあったが、この頃すでに東洋工業は軍事体制に組み込まれていたため、自動車の生産は実現不可能になっていた。

1937年(昭和12年)7月に日中戦争が勃発し、国内の組織が総力戦体制へと再編成されていく中、東洋工業は陸軍小倉工廠から三八式歩兵銃と九二式騎兵銃の生産を申し渡された。自動車こそ戦時に必須であると主張して断ったものの、認められることはなく、年末には部品の生産が開始された。1938年(昭和13年)1月には軍需工業動員法により陸海軍共同管理工場に指定され、軍部の直接管理を受けることになった。陸軍大臣による歩兵銃生産の命令を受けた東洋工業は、1940年(昭和15年)に九九式短小銃の組み立てを始め、工場が完成した翌1941年(昭和16年)からは本格生産を開始した。呉海軍工廠からは爆弾、水雷、信管などの製造の命令を受けた。

軍国主義の流れが軍需一本槍となる中、民生用品生産は圧迫を受け、商工省により三輪トラックの生産は東洋工業、発動機製造(現・ダイハツ工業)、日本内燃機の3社にのみ許可された。しかしその後、三輪トラックの生産は一時中止に追い込まれるなどして生産台数は極度に落ち込んだ。
1943年(昭和18年)10月には三輪トラックの生産台数はゼロとなり、終戦まで三輪トラック部門は実質的に機能を停止した。

1943年(昭和18年)の上期には戦時金融金庫が東洋工業株を取得して日本窒素肥料に次ぐ第2位の大株主となり、さらに同年下期に日本窒素肥料が保有する株式を戦時金融金庫に譲渡したことで、資本面でもより強い戦時統制の下に置かれた。翌1944年(昭和19年)1月、兵器増産を目的に前年に施工された軍需会社法に基づき、東洋工業は軍から軍需会社に指定され、軍需省中国軍需管理部の管理下に入った。同月には日窒コンツェルン総帥で取締役の野口遵が死亡し、これを受けて同年5月までに日本窒素肥料系の役員が経営陣から去ったことから、東洋工業と日本窒素肥料の提携は終了した。同年7月には内山コルク工業との共同出資で東洋コルクを設立し、祖業であるコルク製造事業を分離した。この年の10月には東洋工業は8556人の従業員を抱える国内トップクラスの軍需会社となっており、戦時中に製造した小銃は累計で58万5646挺に上った。
1945年(昭和20年)8月6日、アメリカ軍により広島市に原子爆弾が投下され、細工町(現・中区大手町)上空で炸裂した(広島市への原子爆弾投下)。爆心地から5.3km離れた東洋工業は爆風によって若干の建物が倒壊し、一部工場の屋根が吹き上げられたりほとんどの窓ガラスが割れる被害に遭ったものの、全体としての損害は軽微で、機械設備はほぼ無傷で残存した。しかし県当局の命令により鶴見町(現・中区鶴見町)で建物疎開の作業に動員されていた73名を含め、計119名の社員が命を落とし、負傷者は335名に上った。松田重次郎の次男でマツダモータース (現・広島マツダ)社長の松田宗弥も全従業員7名と共に亡くなった。

東洋工業附属医院(現・マツダ病院)は広島市の負傷者が一番広い道を東に向かって避難する際に真っ先に目に入る医療機関だったため、多くの人々が詰めかけてくる事態となり、そのため東洋工業の食堂や寄宿舎も解放・提供し、医療品を含めたあらゆる物資の扉を開いて総出で救護にあたった。しかしながら負傷者は次々と亡くなっていき、会社のグラウンドでは連日犠牲者の遺体に油をかけて火葬が行われた。1945年(昭和20年)8月15日、東洋工業は生産を完全に停止したまま終戦を迎えた。

東洋工業本社は広島市周辺で唯一残存した大規模な建物だったため、多くの企業や団体が東洋工業に施設の提供を求めた。広島県庁は1946年(昭和21年)7月まで全機関が東洋工業の施設内で業務にあたり、他にも広島県警察部、広島控訴院、広島区裁判所、広島県食料統制組合なども東洋工業に間借りした。日本放送協会広島中央放送局(現・NHK広島放送局)は東洋工業で放送を再開し、中国新聞は東洋工業から借り受けた三輪トラックで壁張り新聞を掲示して、救護所の場所といった情報を市民に届けた。

占領にあたった連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本の平和経済に必要な設備・施設のみの存置を認め、その他は賠償として全て取り立てるという方針を示しため、軍需会社に指定されていた東洋工業は存亡の危機に立たされる事態となった。1946年(昭和21年)に東洋工業は賠償工場に指定され、全社の46%に上る機械や設備が封印され使えなくなったが、当時の内務省警保局長である谷川昇の取り計らいにより、資本金1億円以上の企業のみがパージの対象となったため、資本金3000万円の東洋工業は幹部の公職追放などは免れることができた。

企業の存続が許されるかも分からず、社内に不安が漂う中、東洋工業は三輪トラックの生産再開を決定し、1945年(昭和20年)9月には久留米市のブリヂストンの工場を訪ねるなど準備活動を始めていた。GHQからも軍需工場の民需生産転換の許可が降りたことから、終戦から4ヶ月後には生産を再開し、マツダ号GA型10台を完成させた。三輪トラックは戦前に軍用に向かないとして生産台数が大幅に減らされていたため、現役で走るその多くが老朽化していた上、戦後に手軽な輸送手段として急速に需要が高まったことから、1946年(昭和21年)には大手メーカーが相次いで参入し、三輪トラック業界は活況を呈した。復興が本格化してきた1950年(昭和25年)頃になると市場からはより大きい積載能力を持つ三輪トラックが要望されるようになり、同年9月、東洋工業は業界初の1トンの積載能力を持つマツダ号CT型を発売。1951年(昭和26年)に三輪トラックに対する車体サイズや排気量の制限が撤廃されたのを受け、同年に4.8メートルのロングボディを持つCTL型を発売し、翌1952年(昭和27年)には2トン積みのCTL型も登場させた。東洋工業の三輪トラックの売上は1949年(昭和24年)から1954年(昭和29年)までの間に12倍以上に増加した。

三輪トラックの大型化と多様化を進める一方、東洋工業は小型四輪トラックの開発も並行して行なっていた。1949年(昭和24年)にかけて試作を完了させ、工場生産の準備を開始。翌1950年(昭和25年)には東洋工業初の四輪車となる小型四輪トラック、CA型を発売した。新開発の空冷エンジンを搭載し、28万円の低価格で販売されたCA型だったが、1952年(昭和27年)までの間に35台だけで生産は中止となり、またほぼ同じ時期に発売した消防車のCF型の生産台数も74台に留まったため、四輪車市場への進出は一旦中断されることになった。

1951年(昭和26年)、松田重次郎の長男で専務の松田恒次が社長に就任。1956年(昭和31年)には再び四輪車の開発に着手し、1958年(昭和33年)、小型四輪トラックのロンパーを発売。翌1959年(昭和34年)には水冷エンジンを搭載したトラックのD1100型、D1500型を登場させた。

1960年(昭和35年)以降になると、日本のモータリゼーションはそれまでの事業用から個人用へと需要が移行しつつあった。1955年(昭和30年)に報道された通商産業省(現・経済産業省)の「国民車構想」の影響もあり、富士重工業(現・SUBARU)のスバル・360や三菱重工業の三菱・500など、他社からは次々と大衆乗用車が発売されていた。
このような一連の動きを背景に、東洋工業は乗用車市場するにあたり、「ピラミッドビジョン」という新車開発構想を立案した。これは国民の所得階層分布とそれに対応する乗用車の保有構造をピラミッド型に見立て、まずは下層部を占める大衆向けの乗用車から開拓し、国民所得水準の向上とともに一段ずつ上の車格の車種を展開していくことで、最終的には頂点部である高級車までをも担う総合自動車メーカーを目指すというものだった。この構想に基づき、1959年(昭和34年)4月に軽乗用車の開発に着手し、翌1960年(昭和35年)4月、東洋工業初となる四輪乗用車、R360クーペを発売した。1962年(昭和37年)には大人4人が乗れるファミリーカーとして開発したキャロル360を発売。両車は大ヒットを記録し、1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)までの3年間、東洋工業はトヨタ自動車、日産自動車を抑えて国内販売台数首位に躍進した。

次なる市場として小型乗用車を見据え、1963年(昭和38年)にファミリアバンを発売し、翌1964年(昭和39年)年には本格的なファミリーカーとして開発したファミリア4ドアセダンを投入。その後も2ドア、2ドアスペシャル、ファミリアトラックなど、ファミリアシリーズを中心に小型車を充実させていった。

1960年(昭和35年)から3年間にわたり、東洋工業は自動車生産台数で国内首位となっていたが、その多くは三輪トラックと軽乗用車だったため経営基盤は弱く、企業規模や収益性といった点でトヨタや日産に大きな差をつけられていた。また、当時の通商産業省は、近い将来の貿易自由化に備えて国際競争力を強化するために、国内自動車メーカーを「量産車(普通乗用車)」、「特殊乗用車(高級車)」、「ミニカー(軽自動車)」の3グループに統合させるとする「3グループ構想」を抱いており、東洋工業はミニカーグループの代表的なメーカーと見られていた。社長の松田恒次は、総合自動車メーカーを目指しているにもかかわらず東洋工業がミニカー専業会社とされ、その上合併を強いられて経営権を失うなど論外だと考えていた。

こうした状況の中、社の独立を保ちたいと思案していた松田恒次は、1960年(昭和35年)の元旦にドイツ人の友人から、西ドイツのNSU社とフェリクス・ヴァンケル博士が率いるヴァンケル社が共同開発したロータリーエンジン(RE)についてのレポートと雑誌記事が同封された手紙を受け取り、1日も早く技術提携を結ぶよう勧められた。REが自動車業界再編を乗り切るための切り札になると確信した松田恒次は、社内の反対の声を無視して技術提携を進めることを決断。松田恒次には、REの技術力によって企業イメージの向上が図れることや、RE開発の名目で銀行からの融資が受けやすくなり、その資金で通商産業省主導の再編を乗り切るための研究開発や設備投資を強化できるといった考えがあった。

NSUには世界各国の約100社から技術提携の申し込みが殺到していたが、駐日西ドイツ大使らの仲介によって、1960年(昭和35年)7月に交渉の約束を取り付けることに成功した。同年9月末、松田恒次一行はメインバンクである住友銀行頭取の堀田庄三の斡旋により手に入れた、吉田茂元首相から西ドイツのアデナウアー首相に宛てた紹介状を携えてNSUへと向かい、当時としては破格の2億8000万円の特許料を払って技術導入を決めた。

技術提携に関する政府認可がおりた1961年(昭和36年)7月、技術研修団がNSUに派遣され、そこで一定時間の稼動後にエンジン内壁面に発生する「チャターマーク」と呼ばれる摩耗が量産化を妨げる大きな原因であることを知らされた。帰国後に「ロータリーエンジン開発委員会」が設置され、NSUから届いた設計図を元に試作エンジンを完成させたが、契約前には明かされなかった様々な問題が発生し、実用には程遠いものだった。1963年(昭和38年)4月、開発強化のため、「ロータリーエンジン開発委員会」を昇格させた「ロータリーエンジン研究部」を設置。山本健一(後に6代目社長)を部長に総勢47名で発足し、翌年には3億円の総工費をかけた専用の研究室が用意された。山本をはじめとする開発陣は日本カーボンと共同でカーボンを浸潤させたアペックスシールを開発するなどして耐久性の確保に成功。1967年(昭和42年)5月、特許購入から6年の歳月と40億円以上とも言われる巨額をかけたプロジェクトは、RE搭載車のコスモスポーツの発売という形で結実した。

REの圧倒的な動力性能と流麗かつ未来的なデザインを兼ね備えたコスモスポーツはイメージリーダーとして絶大な役割を果たし、それまでの「バタンコ屋」と呼ばれた垢抜けないイメージが「ロータリーのマツダ」という最先端のイメージに取って代わった。企業イメージ向上は販売増にも結びつき、1966年(昭和41年)からの2年間で四輪車の生産台数は19%も増加。コスモスポーツに続いて、ファミリアロータリークーペやルーチェロータリークーペなどREを搭載したモデルを発売し、1970年(昭和45年)にはファミリアロータリークーペなどの対米輸出を開始して念願だったアメリカ市場へと進出した。

1970年(昭和45年)、東洋工業はフォード、日産と共同で日本自動変速機(現・ジヤトコ)を設立し、同年にはフォードからの強い申し入れを受けて資本提携交渉に入った。マツダの小型トラックをフォードに供給する業務提携がまとまり、本題の資本提携交渉に入ろうとした矢先、社長の松田恒次が死去。後任には長男で副社長の松田耕平が就任し交渉は継続されたが、NSUが東洋工業とフォードの資本提携は認められないと反対した上にニクソン・ショックも重なり交渉は難航。互いの溝は埋まらず、1972年(昭和47年)3月に交渉は決裂に至った。

1970年(昭和45年)、アメリカでは排出ガス規制を大幅に強化するマスキー法が発効され、自動車業界はかつてない技術的困難に直面していた。東洋工業のREはホンダが開発したCVCCエンジンとともにこの規制を達成し、ゼネラルモーターズ(GM)、トヨタ、日産もREの開発に本格的に乗り出す展開となっていた。このような中、松田耕平はいずれREの時代が到来すると予想して大規模な設備増強を決定。増産工事に続いてREの新工場建設に取り掛かり、研究開発費を含めた総投資額は600億円にも及んだ。この間もRE車の販売は国内外で好調で、特に主要な輸出先であるアメリカでは、1973年(昭和48年)に輸出した台数の内の7割から8割をRE車が占めるほどだった。

1973年(昭和48年)10月、第四次中東戦争の勃発を契機に第1次オイルショックが発生した。10月から11月にかけて石油化学製品の価格は40%から50%上昇し、自動車各社は値上げを実施。同年12月に日本の自動車市場は前年同月比75.6%と大幅な落ち込みを記録した。需要の冷え込みを受けて他社がいち早く減産体制を敷く中、松田耕平はオイルショックによる物資不足は一過性のものであり、購買活動が自動車へと戻る際に備えて作り溜めをしなければならないと判断したため、東洋工業は増産体制を取り続けた。ところが翌1974年(昭和49年)1月、アメリカ合衆国環境保護庁(EPA)がREは通常のエンジンと比較して約50%程度多くのガソリンを消費するとの報告を発表。オイルショックとこの指摘の影響が重なったことで極度の販売不振に陥り、国内外で抱える在庫台数は20万台にまで積み上がった。研究開発費の増加や競争の激化、多品種少量生産による低収益性などが重なっていたところにオイルショックが発生し、東洋工業の財務体質は急速に悪化した。
通商産業省からの要請を受けて東洋工業の経営実態の調査を進めていたメインバンクの住友銀行は、こうした事態を看過できなくなり、1974年(昭和49年)10月、同行事務管理部長の花岡信平と住友信託銀行法人信託部長の中村和生ら4人を東洋工業に派遣。花岡と中村の両人は翌1975年(昭和50年)1月の株主総会で取締役に選任され、これ以降東洋工業の再建は住友銀行の主導で進められることとなった。同月、住友銀行は東洋工業の管理を専門に担当する「融資第二部」を新設。責任者には専務の磯田一郎(後の頭取・会長)が、部長には本店営業部長で常務の巽外夫(後の頭取・会長)が就任した。

東京及び大阪両支社等の土地建物や有価証券の売却、住友銀行を中心とした協調融資、減産及び在庫一掃を目的とした余剰人員のディーラーへの出向、米国販売会社の分割、コストコントロール部の新設による全社的な原価低減活動の開始といった対策が次々と打たれた。しかし、1975年(昭和50年)10月決算では経常赤字が173億円に上り、同業他社の首脳から「東洋工業は倒産する」との談話が出るなど、東洋工業を取り巻く環境は厳しさを増していった。

1976年(昭和51年)1月、住友銀行は本格的再建のために村井勉常務(後の副頭取)を副社長として派遣。東洋工業を「経営形態を成しておらず、町工場に等しい状況」と判断した村井は、有名無実化していた最高意思決定機関である常務会の強化や、社全体の計画立案・調整を担う社長室の新設を実施。住友銀行式の合議制経営を導入し、それまでの松田ワンマン体制にメスを入れた。

住友銀行は、東洋工業の合理化に成功したとしても単独での生き残りは困難であると考え、開発したREの特許を交渉材料に提携先を探すことにした。しかしトヨタや三菱自動車との提携を模索するも成就せず、通商産業省も日産に提携を持ち掛けたが、こちらも実現しなかった。松田耕平も独自にゼネラルモーターズ(GM)との交渉に動いていたが、GMはすでにREへの関心を失っていた上にアメリカの独占禁止法上の問題もあったため、この可能性も消えた。

国内自動車会社との提携は困難であると認識した住友銀行は外資との提携に動き、過去に資本提携交渉は決裂したものの、1971年(昭和46年)6月に業務提携を結び、小型トラックを輸出していたフォードを新たな提携先として選択。1977年(昭和52年)7月、前月に頭取に昇格した磯田は「東洋工業はフォードとの提携強化を望んでおり、その際、住友銀行は主力銀行として支援を惜しまない」との内容の会長宛ての親書をしたため、巽外夫に託し交渉を開始した。

こうした中、経営改革に消極的な松田耕平にしびれを切らした住友銀行は、当初より念頭に置いていた社長解任に向けた動きを始め、1977年(昭和52年)12月に出処進退を迫った。同月22日、松田耕平は代表権のない会長に退き、後継には住友銀行の後押しで、コストコントロール部を担当していた専務の山崎芳樹が昇格。これにより3代にわたって57年間続いた松田家による同族経営は終わりを迎えた。山崎は車種ごとに開発や生産、販売を統括する主査室を新設し、経営トップの意向を反映する従来の車づくりから部署を越えて意見を出し合う体制を構築した。

1978年(昭和53年)に入りフォードと東洋工業の接触は頻繁となり、同年12月には東洋工業がフォードにトランスアクスルを供給する交渉がまとまった。翌1979年(昭和54年)11月、アジア太平洋戦略の足がかりとして日本車メーカーとの提携を模索していたフォードと東洋工業・住友銀行の思惑が一致したことで、フォードが東洋工業に25%出資する資本提携が実現した。
住友銀行から派遣された常務の花岡信平の「アメリカでのスポーツカー需要に応えるためにはRE車が必要」との報告を契機にRE搭載の本格スポーツカーの開発が開始され、1978年(昭和53年)3月にサバンナRX-7として発売。日米で大ヒットを記録した。オイルショック以降発売した新型車と社員のディーラー出向制度が効果を発揮したことで販売は回復。1979年(昭和54年)にはトヨタ、日産に次いで生産台数100万台の大台に乗せた。1980年(昭和55年)には主査室制度になってからの最初の商品である5代目ファミリアを発売し、当時の若者らに支持され大ヒットを記録した。

1981年(昭和56年)、東洋工業は新たな卸売会社、オートラマを設立し、マツダが製造するフォードブランド車の国内販売を始めた。オイルショック後に延期が続いていた山口県防府市の完成車工場の建設も再開し、1982年(昭和57年)に操業を開始した。

1984年(昭和59年)5月、東洋工業は社名をブランド名に合わせマツダ株式会社に改称。同年11月にはロータリーエンジンの生みの親である山本健一が社長に就任し、同時にアメリカへの工場進出を発表した。

1985年(昭和60年)9月、先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)でプラザ合意が発表されると、1ドル250円だった為替レートは一年後に150円台にまで急騰。自動車を始めとした輸出比率が高い産業を直撃し、とりわけ輸出比率が68%にも達していたマツダは大きな打撃を受けた。円高は自動車各社の目を一斉に国内市場に向けさせ、特に1987年(昭和62年)に創立50周年を迎えていたトヨタは国内シェア50%を目指した「T-50作戦」を展開。他社はその影響をまともに受ける格好となり、円高と国内販売競争の激化でマツダの収益は悪化した。

1987年(昭和62年)12月、円高による業績悪化と自身の腰痛を理由に山本は任期途中で会長に退き、後任には2年前に通商産業省からマツダに転じた古田徳昌が就任。会長の山本、社長の古田、住友銀行出身で副社長の和田淑弘の3人が代表権をもつ3頭体制の下、1988年(昭和63年)5月、マツダは1992年度を最終年度とする中期経営計画「MI(マツダイノベーション)計画」を開始した。「B-10計画」とよばれる国内販売拡大策をその柱とし、国内販売台数をそれまでの約40万台からシェア10%にあたる80万台にまで増やすことで、輸出に依存した経営体質を改め、1ドル100円下でも2兆円の売上と1000億円の経常利益を確保する目標を掲げた。オートラマ社長の安森寿朗が立案したこの販売拡大策は、住友銀行出身の大原通正が後ろ盾となって推進し、当時社長だった山本が最終的にゴーサインを出したものだった。
「B-10計画」に基づき、マツダは従来の「マツダ」、「マツダオート」、「オートラマ」の3つの販売チャンネルに、新たに「ユーノス」と「オートザム」の2つを加え、トヨタや日産と同等の国内5チャンネル体制を敷いた。3チャンネル体制時に1500店余りだった店舗数を3000店近くにまで増やし、600億円を投じて防府第二工場の建設にも取り掛かった。この拡大策はバブル経済期には一定の成果を上げ、1990年(平成2年)には生産台数が140万台にまで達して過去最高を記録。国内販売台数も60万台と最高記録を更新した。1991年(平成3年)には「B-10計画」の後を見据え、「マツダオート」を「アンフィニ」に変更した。

しかしその後、バブル経済が崩壊。それとともに販売台数は急速に減少した。5チャンネル体制はバブル崩壊後すぐにその効果が疑問視されるようになり、長期的にこの体制を維持することが困難であると感じ取った住友銀行は、1991年(平成3年)に銀行出身の和田淑弘を社長に据えた。マツダは1993年(平成5年)度から3年連続して大幅な赤字を計上。1995年(平成7年)度の生産台数は77万台とピーク時の1990年(平成2年)からほぼ半減し、国内販売台数もわずか35万台にとどまるという惨憺たる状況に陥った。販売チャンネルと車種を増やしたことで営業や生産にかかる費用が増大し、高コスト体質がマツダを蝕んだ。マツダの名ではなく、チャンネルの名称やシンボルマークを冠した商品の投入を続けたことでブランドも毀損した。拡大策は完全な失敗だった。

住友銀行の巽外夫は、マツダを再び再建させるには銀行主導では限界があり、フォードの世界戦略への編入以外に生き残る術はないと判断した。巽の要請に応じたフォードは、1994年(平成6年)に将来を有望視されている40歳代の4人を顧問としてマツダに派遣。同年6月の株主総会後に4人は役員に就任し、これをもってフォードは実質的にマツダの経営を掌握した。1996年(平成8年)4月、マツダはフォードに対する第三者割当増資を決定。これによりフォードの出資比率は24.5%から33.4%に高まり、マツダは正式にフォード傘下に入ることとなった。合わせてフォードから派遣されていた副社長のヘンリー・ウォレスが社長に昇格し、日本の自動車会社初の外国人社長が誕生した。

ウォレスが社長に就任した1996年(平成8年)頃、マツダの有利子負債は7000億円を越えていた上、生産台数はピーク時の約半分に落ち込んでいた。財務の専門家であるウォレスら経営陣は、保有株式や不要不急の施設などの資産を売却し、伝統的に資金の面で寛容に扱われてきた開発部門に対しても厳しいコストダウンを要求。増えすぎた車種の整理と販売チャネルの簡素化や、フォード車とのプラットフォームの共通化を発表し、開発や生産、購買までの全業務のデジタル化により経営効率化を図る「マツダデジタルイノベーション」も導入した。1996年(平成8年)には短期間で開発したコンパクトカーのデミオが予想を超えるヒットを記録。翌1997年(平成9年)9月の中間決算では5年ぶりに営業利益が黒字に転じた。

1997年(平成9年)11月、副社長で販売が専門のジェームズ・ミラーが社長に昇格。社長のミラーと技術担当役員のマーティン・リーチの下、ブランドの再興に乗り出し、役員や技術者、海外現地法人との議論を重ねる中で、スポーティさ、走りの良さを全面に打ち出す考えをまとめた。この新たなブランド戦略を遂行するため、すでに進行していた主要車種の開発を白紙に戻し、車種名から内容まで一新したモデルを改めて開発することを決断。このため2000年(平成12年)11月から2002年(平成14年)春までの一年半にわたり、新型車が投入されない異例の時期が生じることになった)。

1999年(平成11年)12月、専務で新ブランド戦略策定の中心人物である(後にフォード社長)が社長に昇格。さらなるコストの見直しを図るため、2000年(平成12年)11月、スペインのフォードの工場でのマツダ車の生産、宇品第2工場の閉鎖、早期退職者募集を柱とする「ミレニアムプラン」を発表。1800人を募集した早期退職優遇プランには受付開始と同時に申し込みが殺到したため即時に募集が打ち切られる事態となり、最終的に2210人が会社を去ることとなった。積立不足だった退職給付債務を一括償却した影響もあり、この年には1552億円の損失を計上した。
2001年(平成13年)10月、第35回東京モーターショーにて新ブランドメッセージの「Zoom-Zoom」を打ち出すとともに、新生マツダブランドを体現する商品の第一弾である中型セダンのアテンザと、ロータリーエンジンを搭載したスポーツカーのRX-8を公開。プラットフォームからエンジンまでを一新し、翌2002年(平成14年)5月に発売されたアテンザは国内外で高い支持を受け、生産能力を引き上げるほどのヒット作となった。新生マツダを象徴する主力車種であるアテンザ、デミオ、アクセラといったモデルの投入によって業績は回復。全く新しいマツダブランドの商品を開発する作戦は成功を収めた。

2003年(平成15年)8月、前年6月に社長に就任したに代わり、井巻久一が社長に就任。日本人社長としては7年ぶり、生え抜き社長としては山本健一以来16年振りのことだった。2007年(平成19年)3月期には営業利益が1621億円と過去最高を記録した。

マツダの業績はフォードの下で回復基調へと転じたが、開発や生産部門の中では、フォードグループの軛から離れ、商品の多様性とコスト低減を両立させる戦略を実行したいとの思いが強まっていた。2005年(平成17年)7月、マツダは好調な業績を背景に長期戦略の策定を始め、10年後の2015年(平成27年)までに全てのマツダ車が世界のベンチマークになるとする目標を設定した。さらに、5年から10年先までの全ての車種をまとめて企画・開発する「一括企画」、一括企画で決めた車種の主要な技術的要素を統一し、コンピューターシミュレーション技術を用いて開発の効率化とコスト低減を目指す「コモンアーキテクチャー」、同一生産ラインで複数の車種を変種変量で造る「フレキシブル生産」の3つから構成される「モノ造り革新」を立案し、開発から生産にいたるまでの全ての業務プロセスを一新する構想をまとめた。

翌2006年(平成18年)末に親会社のフォードに計画の説明に訪れ、否定的な意見に遭いながらも、最終的に黙認に近い形で了承を得るに至った。同時にこれはマツダが失敗してもフォードは手を差し伸べないということを意味し、この時にエンジンの開発方針を分けたことが後の提携解消の契機となった。2007年(平成19年)には技術開発ビジョン「サステイナブル“Zoom-Zoom”宣言」を発表。走る楽しさと環境安全性能の両立を打ち出し、翌2008年(平成20年)6月には2015年(平成27年)までにマツダ車の平均燃費を30%向上させる目標を公表した。

しかしその直後の2008年(平成20年)9月、リーマン・ショックが発生。世界の経済界・産業界は混乱に陥り、自動車産業も深刻な打撃を受けた。経営が悪化したフォードは同年11月に資金調達のため保有するマツダ株の一部を売却したため、出資比率は13%に低下した。これと同時にマツダは副社長の山内孝が社長に昇格する人事を発表し、経営陣をマツダ出身者主体に刷新した。リーマン・ショック後に円相場が急激な円高に振れたことで輸出比率の高いマツダは大きなダメージを受け、2009年(平成21年)3月期には赤字に転落。さらに2011年(平成23年)にかけて東日本大震災やタイの洪水といった事態が続き、最終的にマツダの業績は2012年(平成24年)3月期まで4年連続の赤字に陥った。こうした中、2009年(平成21年)に増資と自社株の売却で933億円、2012年(平成24年)には公募増資と劣後ローンで2142億円を調達し、研究開発やメキシコ新工場をはじめとする設備投資に必要な資金を捻出した。
2010年(平成22年)10月、マツダは新世代のエンジン、トランスミッション、ボディ、シャシーといった一連の新技術を総称した「スカイアクティブ・テクノロジー」を発表。2011年(平成23年)には新開発したガソリンエンジンのSKYACTIV-Gをデミオに搭載して発売し、他社のハイブリッドカーと同等の燃費性能を実現した。2012年(平成24年)にはスカイアクティブ技術を全面的に採用した車種の第一弾であるCX-5を発売し、ディーゼルエンジンのSKYACTIV-Dを中心に大ヒットを記録。この年にはスカイアクティブ技術を搭載した車種の好調な売れ行きを背景にマツダは黒字に転換した。2013年(平成25年)には専務の小飼雅道が社長に昇格した。

この後もスカイアクティブ技術とデザインテーマ「魂動」を採用した一連の車種は人気を集め、2015年(平成27年)に発売した4代目ロードスターは「世界・カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞。合わせて日本車としては初の「ワールド・カー・デザイン・オブ・ザ・イヤー」も獲得し、同賞設立以来初めての2部門同時受賞を果たした。2016年(平成28年)3月期決算では過去最高の営業利益2267億円を記録し。2018年(平成30年)3月期には販売台数が163万台と5年連続で過去最高を更新した。

2015年(平成27年)5月、マツダとトヨタは提携拡大に向けた検討を開始すると発表した。その一方で、2008年(平成20年)以来段階的にマツダへの出資比率を下げていたフォードは、同年9月末までに保有していたすべてのマツダ株を売却し、これによりフォードとマツダの36年間にわたる資本提携は終了した。2017年(平成29年)8月、トヨタとマツダは互いに500億円ずつ株式を持ち合う業務資本提携で合意し、アメリカでの生産合弁会社の設立、電気自動車に関する共同技術開発といった提携内容を発表した。2018年(平成30年)、副社長の丸本明が社長に昇格した。
マツダはロータリーエンジンの量産化に成功したメーカーであったが、2012年6月にRX-8の生産完了後は、ロータリーエンジン搭載車の生産から遠ざかっている。

2013年には、新型ロータリーエンジンを発電機(レンジエクステンダー)として搭載した電気自動車の試作車「マツダ RE レンジエクステンダー」を公開。

2015年10月には、次世代ロータリーエンジン「SKYACTIV-R」を搭載したコンセプトカーRX-VISIONを発表した。

2018年1月にトヨタ自動車が発表したMaaS専用電気自動車のコンセプトカー「e-Palette Concept」では、市販化に向けてマツダが技術パートナーとして参加し、ロータリーエンジンがレンジエクステンダーとして採用される予定であることが発表された。

2011年、自動車を構成する諸要素の全てを刷新し、SKYACTIV TECHNOLOGYとして発表した。SKYACTIV TECHNOLOGYを全面的に搭載した車両は、この取り組みと並行的に進められてきた生産分野の改革「モノ作り革新」により、1ドル77円でも日本国内から輸出して全ての地域で利益を生み出せるコスト競争力を持つ。

SKYACTIV TECHNOLOGYの開発には「モデルベース開発」と呼ばれる手法が用いられており、この手法を用いた開発力については業界随一と他社から評されている。

2017年8月、圧縮着火による燃焼方式を世界で初めて実用化したガソリンエンジン「SKYACTIV-X」を発表し、2019年11月にMAZDA3に搭載されて発売された。

マツダは日本の自動車メーカーでも、工業デザインへの意識を早い時期に持った草分けである。1940年代末期に工業デザイナーの小杉二郎の助言を受けるようになり、1950年以降のオート三輪では、もともとプレスパーツを用いて直線的だったバーハンドルデザインを発展させる形で、オート三輪の風防ノーズ部を鋭角的に仕上げるスタイリングを採用した。続いて1955年以降はノーズの角をえぐる形で2眼ヘッドライトを配置する精悍な形態を導入、オート三輪デザインの基調とした。小杉の指導の下、自社デザイナーの手で仕上げられた軽三輪トラックのK360や軽四輪乗用車のR360クーペ(1960)等までモチーフは引き継がれている。

また1963年発売の初代ファミリアではシボレー・コルベア風のウエストベルトデザインを取り入れ、1966年発売の初代ルーチェでは、イタリアのベルトーネによるスタイリングを採用するなど、古くから旺盛なデザイン志向を発揮していた。

1980年代後半から1990年代前半に、デザイン本部長である福田成徳の指揮の下、「ときめきのデザイン」をテーマにボディの光と影をコントロールする造形を追求した。1989年に発表した初代ロードスターのリアコンビネーションランプは、そのデザイン性と機能性の両立が評価され、ニューヨーク近代美術館に展示・永久収蔵されている。1991年に発表した3代目RX-7は、2008年にイギリスのデイリー・テレグラフ紙が選ぶ「最も美しい車100選」の61位に選出された。また、1991年に発表したユーノス500のデザインは、イタリアのジョルジェット・ジウジアーロに絶賛されたと言われる。

1996年にはデザインテーマ「コントラスト・イン・ハーモニー」を制定し、全ての車種のフロントグリルに5角形の「ファイブポイントグリル」を適用することを決定。2001年にはフォード出身のモーレイ・カラムがデザイン本部長に就任し、デザインテーマ「アスレティック」の下、躍動感のある造形を追求した。

2006年にはローレンス・ヴァン・デン・アッカーがデザイン本部長に就任。デザインテーマ「NAGARE」の下、流 (NAGARE)、流雅 (RYUGA)、葉風 (HAKAZE)、大気 (TAIKI)、清 (KIYORA)、風籟 (FURAI)といった、自然界に存在する動きの美しさを取り入れたコンセプトカーを発表し、その造形は2010年に発表された3代目プレマシーのデザインに反映された。

2009年にはアッカーのルノーへの転職に伴い、デザイン本部長に前田育男が就任。2010年にデザインテーマ「魂動-Soul of Motion」をコンセプトカー・靭 (SHINARI)と共に発表して以来、生き物が見せる一瞬の動きの躍動感や緊張感、美しさを取り入れたデザインを進めている。2015年に発表したRX-VISIONは、フランスで最も美しいコンセプトカーに選出され、2016年には、4代目ロードスターが日本車としては初めて「ワールド・カー・デザイン・オブ・ザ・イヤー」を受賞した。

マツダが開発するカーナビゲーションシステム及びインフォテインメントシステム。日本、アメリカ、カナダ、メキシコを除いた地域での名称はMZD Connect。2013年11月発売の3代目アクセラに初めて搭載された。一部のグレードを除き、ほぼ全てのマツダ車に搭載されている。「ヘッズアップコックピット」の考え方の下、「センターディスプレイ」、「アクティブ・ドライビング・ディスプレイ(ヘッドアップディスプレイ)」、「コマンダーコントロール」により構成され、脇見運転や不注意運転を最小化するようレイアウトされている。

ナビゲーション機能は、ショップオプションとして販売される地図データが書き込まれたSDメモリーカードを別途購入し、車載スロットに差し込むことで利用が可能になる。地図データは3年間無料で更新でき、更新ツールを利用すれば自宅でのアップデートも可能である。
発売当初、ナビゲーションシステムにはハンガリーの社製のものがグローバルに採用されたが、日本のユーザーからはナビゲーション性能の不足を指摘されたことから、2015年から日本市場のみ、日本のミックウェア社製のシステムに切り替えられた。

スマートフォンとも連携し、ハンズフリー通話やSMSの読み上げの他、TwitterやFacebookといったSNS、対応するインターネットラジオの利用も可能である。アプリケーションの追加や、アップルが提供するCarPlay、Googleが提供するAndroid Autoの対応も発表されているが、CarPlayとAndroid Autoの対応において、日本で販売しているモデルはCX-5(2代目・2019年モデル)とCX-8(2019年モデル)、マツダ3(2019年モデル)のみで、他のモデルについては2019年6月時点では対応していない。

マツダコネクトは2DIN規格に対応していないため、他社のカーナビゲーションに換装することはできないが、アルパインからCX-5(2代目)とCX-8専用のカーナビゲーションが登場している。

マツダ車以外では、OEM供給するトヨタ・ヤリスiA、フィアット・124スパイダー、アバルト・124スパイダーに採用されている。
マツダは1988年に、海外販売に依存していた経営体質を改善するため、国内販売を倍増させるとする「B‐10計画」を策定し、従来のマツダ、マツダオート、オートラマに加え、1989年にユーノスとオートザムの独自ブランドと販売網を新たに設立し、当時のトヨタや日産と同様の国内5チャンネル体制を敷いた。1991年にはマツダオートの名称をアンフィニに改称し、高級車専門店とした。しかし、急激なモデル数の増加によるブランドイメージの混乱や研究開発費・固定費の増大を招いた上に、バブル崩壊後の景気低迷の影響も受け、結果的に5チャンネル体制は失敗に終わった。

以来、住友銀行の主導の下、1994年から5チャンネルに広がった販売網の統廃合を進め、1996年にはマツダブランドに再び一本化された。しかし、国内販売では大幅な値引きや安売りに頼った販売拡大策を推し進めたためマツダ車の中古車査定価格は下落し、他社のディーラーに下取りに出そうとしても残価が低すぎるため、結果としてマツダ車以外に乗り換えられないマツダ地獄と揶揄される状態を招き、ブランドイメージの低下と販売不振を深刻化させる悪循環に陥った。

フォードの傘下に入ってからは、「Zoom-Zoom」のキャッチフレーズの下、スポーティなブランドイメージを構築する戦略を進め、大幅値引きに頼る販売を段階的に止めて、メーカーとディーラーが一体となってマツダのブランドイメージ向上に努めている。2011年のSKYACTIV TECHNOLOGY導入以降は、世界的に「売り方革新」と呼ばれる販売改革を進めており、インセンティブの削減、正価販売の定着をこれまで以上に進めていくとしている。

2014年には、デザイン本部が監修した新コンセプトの販売店「新世代店舗」を順次展開することを発表した。

かつては世界ラリー選手権(WRC)やル・マン24時間レースなどにワークス(マツダスピード)として積極的に参戦していた。ロータリーエンジン搭載車でのエントリーが主体であるが、レシプロエンジン搭載車であるファミリアでWRCに、ランティスでJTCCに参戦していたこともある。1999年にマツダスピードがブランド名だけ残して解散して以降、日本法人のマツダとしては一切のワークス活動を行っていない。レースのノウハウと人材は全て社外に放出され、787Bなどは保管しているものの高出力エンジンに対応したエンジンベンチ設備すらない状態である。2018年現在はインタープロトシリーズに『人馬一体ドライビングアカデミー』と称して、市販車開発ドライバーを訓練のためジェントルマンドライバークラスに参戦させている程度となっている。
一方で北米やオーストラリアの現地法人では活発なモータースポーツ活動が継続されている。特にアメリカのマツダUSAはデイトナ24時間含むIMSAのUSCCに参戦しているだけでなく、グローバルMX-5カップやロードトゥインディ(プロ・マツダ チャンピオンシップなど)といった草の根レベルのレースを運営したり、プチ・ル・マンやラグナ・セカのタイトルスポンサーを務めるなど、海外マツダ法人随一の活動実績を誇る。
国内
海外

大会スポンサー

研究開発拠点は以下の通り。

試験場

日本

北米

欧州

アジア・太平洋
日本

北米

欧州

アジア・太平洋

その他の地域

マツダが運営する企業立病院。1938年にマツダ構内の医務室として開設されたのが始まり。1950年に付属病院に変更され、1961年には現在の地に病棟が建設された。
公益財団法人マツダ財団は、「科学技術の振興と青少年の健全育成のための助成などを行い、世界の人々が共に繁栄を分かち合い、心豊かに生きることのできる社会づくりに寄与すること」を目的としてマツダが設立した公益財団法人。1984年に財団法人として設立され、2010年11月に公益財団法人へと移行した。

マツダ工業技術短期大学校は、マツダが設立した厚生労働省認定の2年制企業内短大。技術・技能者を育成するために1988年に設立された。企業内学校であるため入校者は全てマツダの社員であり、新卒者と社内選抜者で構成されている。

マツダが広島本社内に所有する橋。マツダミュージアム見学の際には社内バスでこの橋を渡って移動する。
連結子会社69社は以下の通り(2019年3月31日現在)。

その他20社
持分法適用会社18社は以下の通り(2019年3月31日現在)。

その他4社
人物